2010年08月28日

長い間

これほど長い間父と一緒にいたのはいつ以来だろう。
これほど長い間父を眺めていたことはなかった。
父の唇は、長い年月を経て動いた一つの岩だった。
僕はあの顔を忘れることはないだろう。

posted by 望光憂輔 at 00:02| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月27日

 母が帰ってきた。
 母は年齢よりも若く、父よりもずっと若く見えた。
 一時帰宅した時のベッドの用意ができたことを話した。
「誰が入れたのだ?」
 と父が言った。
「あれは見た?」
 母が指す方を探ると、そこには病気に関する、治療に関する種々の資料が置いてあった。僕は新聞は読んだけれど、それらには一切目を通していなかった。
「新聞に隠れて見えなかったね」
 母が言った。一般的な書籍やカルテのようなもの、病院が作った治療の計画書のようなものがあった。緩和治療というのは、死を見据えたものではないというようなことが書いてあって、僕は「手術はできないの?」と姉に食い下がった時のことを思い出した。
「浩二はいつ帰る?」
 と父が言った。突然、僕の存在に確信を持ったように力強く響いた。
「もうすぐ、帰るよ」
「まあ、皿が残ったまま」
 母が机の上に、白い皿を見つけて言った。薬を飲む時に使った皿は、全粥か何かの蓋だったのだ。
 母は誰かに会って色々なおみやげを抱えていた。食べるかと訊くのでいらないと言った。饅頭のようなものだった。チョコレートでも何でも僕はいらないと言っただろう。それから弁当のような物ももらっていた。勿論、いらないと言った。きっとそれはみんな母が食べるのだろう。みんなが食べなかったものは、最後は母がみんな食べてしまう。太る太ると言いながら食べるのが母だった。
 僕はそろそろ帰らなければならない時間だった。一本乗り遅れれば、もう帰ることはできない。そのような町だ。
 そろそろ帰るよ。僕は立ち上がり、動き始めた。
「また来るよ」
 ベッドの上の父へ言った。それ以上の言葉は出てこなかった。
「また来る」
 父が、僕の顔を見ている。その時、僕はその日初めて父の顔を正面から見た。丸い。お祖母さんの顔に似ていた。
 父の、唇が動いた。
 声にはならなかった。
 けれども、唇が何度も動いた。 ありがとう よかった きをつけて
 すべての言葉が、僕にはわかった。
 僕は別れの手を上げた。父も、弱々しく、上げた。

posted by 望光憂輔 at 23:03| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

松山千春

「腹が減ったろう」
 と父が言った。
「うん。広島でうどんを食べた」
「広島?」
 父は、難しい言葉を聞いたように言った。
「出張か?」
 と父は言った。
「乗換えで降りた」
 父は、僕のことをわかっているのだろうか。出張なんて……。また少し不安を覚えた。テレビからは童謡が流れていた。デュエットだった。歌が終わると、近い未来の番組の放送予告に変わり、たくさんの歌手が次々と現れた。
「この人は誰だ?」
 と父が言った。
「松山千春」
 僕は答えた。
「松山千春」
 次の開催都市が決まった時のように、父が言った。

posted by 望光憂輔 at 16:36| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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