2010年08月13日

ゆかりの地

 この辺りに、僕は昔住んでいたのだ。でも、ここは知らない。ここも知らない。歩くほどに、知らない場所ばかりだ。この辺りも、すっかり変わってしまったのだ。道だって随分と広くなった。辛うじて郵便局が残っている三叉路を折れて、確かめておきたかった場所に行きついたが、様子は違っていた。
「石川さんね、引っ越されたのよ。大通りの向こう側に新しく」
 なくなったわけではないと知り、少し安心した。病院とは反対側だったが、急ぐこともないと思い僕は大回りして石川食堂の様子を観察していくことにした。うどんと石川の文字があり、すぐにそれとわかった。店の中を静かに覗く。色あせた暖簾、使い込んだテーブル、個性豊かな椅子、凸凹の床、そういったイメージのすべてはそこにはなく、ただ整ったスマートな形ばかりが揃っていて、味を確かめるまでもなく僕は決め付けた。これはもう別のもの。準備中の店の奥に、まさかいるはずもないお婆さんの姿を探した。エプロンをした若い男の姿が見えた。

posted by 望光憂輔 at 18:29| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広島

 おばちゃんはケータイを開きじゃけーじゃけーを連発し、ここは広島ですよと僕に教えてくれたけれど、なぜ広島で下車しているのかよくわからなかった。麺は発泡スチロールのような麺だったし、スープはだしの素のだしを思い切り薄めたようなスープだった。石川食堂を一途に目指すべきだったけれど、本当にまだあるのかどうかの不安が判断を曲げ、僕をうどんの罠に巻き込んだのだった。
 白いシーツが黒い群れに侵されて行く。ヨシヒコくんが引き込んだ無数の蟻に囲まれて僕は声を出せないまま、ベッドの上でもがいている。大人も子供も誰も助けてくれない。ただ耐えて、時が過ぎることを待つしかないのだ。いつか、ヨシヒコくんか、僕がここからいなくなる時まで。巨大な蟻だ。羽の生えた奴もいる。悪意に満ちた匂いを発しながら、僕を取り囲む。蟻たちの記憶が、ずっとつきまとっていた。何度も僕はその後の無関係な蟻たちに対して、その行進を邪魔したり、水攻めをして巣を攻撃したりしたのだった。
 列車が動き始める。あるいは街のどちらかが動いている。動いている限り、僕にはまだ書くべきことがあるのだ。山の色をした川が流れ、列車が軋む。そのせいで車掌の声が聞こえないのだ。間違って、乗り過ごしたら、今度は歩いて戻ってこよう。

posted by 望光憂輔 at 15:49| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

空席

 下り列車の隣の席はずっと空いていた。急な腹痛で乗り遅れてしまったのかもしれない。
 遅れて行く度に、僕はよく怒られた。その内、職員室に呼び出されることもあった。担任の机のずっと向こうに父の姿があるような気がしたけれど、僕は本気で顔を上げて見ようとはしなかった。僕はただ反省の弁を口にした。何が僕の足を引っ張っているのか、その時自分でもよくわからなかった。
「あれではコトー先生も怒りにくいだろう」
 父は、僕の笑顔がなんともよいと言って笑っていた。僕は少しも笑っている覚えなどなかったのだけれど。

posted by 望光憂輔 at 15:19| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

伝説の塔

 強風でおかしくなったアンテナを立て直そうと父は屋根に上った。アンテナを持ち角度を変え固定する父を、庭から家族みんなで見守っていた。お父さん、気をつけなさいよ。けれども、父は瓦の上を滑ってずるずると落下してしまうのだった。あーっ、と母が口に手をやり叫ぶ。父は屋根から落ちてしまう寸前で命綱によって引き止められる。伏せながら振り返って、ひひひと笑う。綱を手にして体勢を立て直し再び上に向かうけれど、また躓いて落ちてくる。けれども、命綱で大丈夫だ。父の奮闘を眺めながら、姉が笑った。姉はどんな時でも物事を客観視して些細な場所から笑いを見つけることが得意だった。落ちては復活して上昇する裸足の父を見ながら、僕も笑った。だんだんと堪え切れなくなって、大声を出して笑った。
 家の庭には、父が建てた10メートルを超すタワーがあった。一つずつ鉄を組んで、父が一番天辺まで行って組んだのだ。勝手にそんな高いものを建てていいかはわからなかったが、誰からも文句を言われなかったのでいいのだろう。そのタワーを使って、父は見知らぬ人々と秘密の交信をしていた。まだ、携帯電話も何もない頃だった。

posted by 望光憂輔 at 00:02| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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