2010年08月14日

気づいているのか

 僕は母の寝泊り用のベッドに腰掛けて、ベッドの上の父を見た。小さくなった。
「どこから来たか?」
「駅から歩いてきたよ」
「そうか。歩いて来たか」
 擦れるような声で言った。それから父は何も言わない。とても苦しそうだ。急速に押し寄せた病魔が父から精気を奪ってしまった。父は動かない。
 父の沈黙が僕の心を折ってしまった。もうあまり僕のことをわかってないのではないか……。そう思えてきて僕は泣いてしまった。母のベッドの上で、僕は最初の決意を破って泣いた。父の方を見れなくて外の方を見た。窓の外に他人の窓はない。ただ灰色のアスファルトがあるだけだ。父は寝息を立てているようだった。
 僕はここで母の戻ってくるのを待つのだ。話などできやしない。昔の話は、もっと前にしておくべきだった。そうできる間に、もっと話しておけばよかった。父はもうあまりに弱く小さくなりすぎている。どうせわからない。僕が泣いていてもどうせわからない。そう思えばもう涙は止まらなくなった。鞄の中からポケットティッシュを取り出した。僕には泣くことの他にできることなど何もない。ただ泣いて帰るだけだ。

posted by 望光憂輔 at 18:09| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ポプラ

「2つ目の信号のすぐ左にあります」
 とポプラの女は言った。信号なんてどこにあるのだ。見渡す限りそんなものはない。どこまでも歩いてくしかないのか。

 一時帰省で家に帰った時、兄はどこかよそよそしくて、何を話していいのかわからなかった。少しずつ話せるようになって、やっぱり兄弟だったと思い出すようになって、やっぱりずっと家にいるのがいいと思うようになったら、いつも再び病院に戻らなければならない時間になっていた。
 花が咲いていると母が言った。僕は何も言わずに後部座席に座っていた。少しずつ病院が近づいてくる別れのドライブの中で、僕のリクエストした曲が繰り返しかかっている。信号が赤になって止まることがうれしかった。もう少し、もう少し、母と、父と、一緒にいられたらいい。信号よ、どうか赤になってほしい。また車が走り出す。僕の最終地点に向けて、走り出す。春の花が咲いたと母が言った。あれを見てごらんと言う。信号が赤で、父の車が速度を落とす、けれども、瞬間、信号が青に変わって、加速してしまう。少しだけ、別れが早まってしまう。少しずつ、僕は大人の顔を作り始めなければならない。病院に着いたら、僕はもう大人だ。涙は誰にも見せられない。誰も助けてはくれないのだし、ひとりでも立ち向かっていかなければならないのだから。最後の信号を越えて、カチカチと車は曲がって、坂道を上っていく。もう、誰もしゃべらなくなった。

「おじいちゃんが、死んだからね」
 10歳の時、僕はもう自分ひとりで歩けるようになっていて、学校からの帰り家の前の坂道を歩いていると、家から父が出てきたのだった。難しい顔をしながら、ゆっくり僕に近づいてきて、小さな声で言ったのだった。

 あの巨大な建物は何だろう。その前に広がっている自由な空間、あれは公園だ。大きい。遊び甲斐がある。いい天気だ。今度は早い時間に来て、ここでボール遊びをしよう。きっとしよう。その時も、今日のように晴れていたらいい。ようやく信号が一つ、しばらく行くともう一つ。そうか、ここなんだな……。こんな病院で大丈夫か。もっと大きな病院はないのか。
 受付で西棟を訊こうか。先客が割り込んできた。僕はエレベーターに乗った。4階で降りるとすぐに西棟への矢印を見つけた。たくさんの部屋がある。休憩所の椅子に座っている人がいる。父か? よう、と声をかけそうになるが、よくみると父ではない。顔が変わっているかもしれないが、これは父ではない。病室の前には、札があってそこには父の名と、もう一つ別の名前が書いてあった。病室の前は通行止めになっている。数人の看護師さんがいて、誰かを運び出そうとしているようだ。入るに入れず、僕は廊下を行ったり来たりして時を稼いだ。どこかに窓があればいい。そうしたら窓から外を眺めている演技ができる。けれども、窓はない。壁に向かって立っているのは、不審だ。僕は壁を見たり、回ったり、入口の前に停止したりした。誰かが運び出されそうだ。それを見ていいのか見ない方がいいのか、わからない。壁に向かって歩く。知らない人が、運び出されていく。父ではない。違う人だ。
「田原さん?」
 謎の老婆が、病室から現れた。
「奥におられますよ」
「ありがとうございます」

posted by 望光憂輔 at 00:08| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。