2010年08月19日

桃缶

「何か飲み物を買ってきて欲しいのだが」
 ベッドの上に浮いた細長い机の上には、さっき女の人が入れてくれたお茶がマグカップにそのまま残っていた。何がいいか考えていると父は桃を食べると言い始めた。お茶の横に、箸箱や爪楊枝と並んで桃の缶詰が置いてあるのだった。
「昔、こういうの飲んだなあ」と父は言った。
「桃?」
「違う」
 開けてくれと父は言った。今食べるの? これに入れてくれと父は言った。空っぽの銀のマグカップに桃の缶詰を注ぎ入れた。僕のした親孝行と言えばこれだけだった。
「多い」と父は言った。
 机を近づけてくれと父は言った。起こしてくれと父は言った。僕は父の体を起こして手で支えた。
「これで食べられる?」
 苦しいと父は言った。どうにも苦しいと父は言った。けれども、僕がやってきたあの時よりは父は遥かに元気になっているように見えた。あの時は、ちょうど午後の治療の後で最も苦しい時だったのかもしれない。隣のお婆さんがカーテンの向こうから助けに現れた。ベッドが上がるはずですと言う。紐で吊るしてあったリモコンを取り、スイッチを押してみるがうまくいかない。
「うちの所と違うのかしら?」
 別のところを押してみるとようやくベッドは上がり始めた。父はようやく楽な姿勢を得た。
「ありがとうございます。助かりました」
 大きなスプーンを持って、父は桃を食べた。全部食べてしまったので、僕は缶に残っていた桃2切れを継ぎ足した。父はすぐに食べた。
 ベッドは大きく傾いたのに、角にあるティッシュの箱は平気な顔をして落ちなかったし、こんな小さな病室のベッドの上にも、しあわせのかけらは見つけられるのかもしれない。その時、僕はそう思った。父が元気に桃を食べたので、僕も少し元気になった。

posted by 望光憂輔 at 00:02| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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