2010年08月27日

 母が帰ってきた。
 母は年齢よりも若く、父よりもずっと若く見えた。
 一時帰宅した時のベッドの用意ができたことを話した。
「誰が入れたのだ?」
 と父が言った。
「あれは見た?」
 母が指す方を探ると、そこには病気に関する、治療に関する種々の資料が置いてあった。僕は新聞は読んだけれど、それらには一切目を通していなかった。
「新聞に隠れて見えなかったね」
 母が言った。一般的な書籍やカルテのようなもの、病院が作った治療の計画書のようなものがあった。緩和治療というのは、死を見据えたものではないというようなことが書いてあって、僕は「手術はできないの?」と姉に食い下がった時のことを思い出した。
「浩二はいつ帰る?」
 と父が言った。突然、僕の存在に確信を持ったように力強く響いた。
「もうすぐ、帰るよ」
「まあ、皿が残ったまま」
 母が机の上に、白い皿を見つけて言った。薬を飲む時に使った皿は、全粥か何かの蓋だったのだ。
 母は誰かに会って色々なおみやげを抱えていた。食べるかと訊くのでいらないと言った。饅頭のようなものだった。チョコレートでも何でも僕はいらないと言っただろう。それから弁当のような物ももらっていた。勿論、いらないと言った。きっとそれはみんな母が食べるのだろう。みんなが食べなかったものは、最後は母がみんな食べてしまう。太る太ると言いながら食べるのが母だった。
 僕はそろそろ帰らなければならない時間だった。一本乗り遅れれば、もう帰ることはできない。そのような町だ。
 そろそろ帰るよ。僕は立ち上がり、動き始めた。
「また来るよ」
 ベッドの上の父へ言った。それ以上の言葉は出てこなかった。
「また来る」
 父が、僕の顔を見ている。その時、僕はその日初めて父の顔を正面から見た。丸い。お祖母さんの顔に似ていた。
 父の、唇が動いた。
 声にはならなかった。
 けれども、唇が何度も動いた。 ありがとう よかった きをつけて
 すべての言葉が、僕にはわかった。
 僕は別れの手を上げた。父も、弱々しく、上げた。

posted by 望光憂輔 at 23:03| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

松山千春

「腹が減ったろう」
 と父が言った。
「うん。広島でうどんを食べた」
「広島?」
 父は、難しい言葉を聞いたように言った。
「出張か?」
 と父は言った。
「乗換えで降りた」
 父は、僕のことをわかっているのだろうか。出張なんて……。また少し不安を覚えた。テレビからは童謡が流れていた。デュエットだった。歌が終わると、近い未来の番組の放送予告に変わり、たくさんの歌手が次々と現れた。
「この人は誰だ?」
 と父が言った。
「松山千春」
 僕は答えた。
「松山千春」
 次の開催都市が決まった時のように、父が言った。

posted by 望光憂輔 at 16:36| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

パイプ椅子

 父が動き出した。
「どうするの?」
 僕は心配になって見ていた。ベッドの下には靴と下駄とが置いてあったが、靴の方を履こうとしている。小学校の上履きのような小さな靴だった。父は苦労して靴を履き終えると、母のベッドの前に置いてあったパイプ椅子に座った。
「ここで食べるの?」
 その椅子はお客さん用だと思っていた。食事は常に、ベッドでするのだと思っていた。先生が食事を運んできて、慣れた動作で机をベッドから動かしてどこかのスイッチを押した。すると机は自動で降下して、父が食事をするちょうどいい高さで止まった。
「何食べるの?」
「全粥」
 と父は言った。
 今日のメニュー  全粥、鶏肉、豆腐、みどりのもの
「肉うまい?」
「うまい」
 と父は言った。
 父は、勢いよく食べた。勢いよく音を立てて、全粥を食べた。
 薬がやってきた。小さな白いのが全部で8粒もあった。
「開けてくれ」
 と父が言った。父は、あらゆるパッケージを開けるのが苦手だった。「こんなの嫌いだ」と包装フィルムに触れては言ったものだ。薬を取り出すことは、僕にも難しかった。一つ一つを小さな皿に入れていった。誤って薬がどこかへ飛んでしまったら大変だ。僕は今日一番の大仕事を慎重にやり遂げた。
 父は、マグカップに入ったお茶で薬を飲んだ。そして、全粥を勢いよく食べた。
「行っておかねば」 と父が言った。
 すると先生が来て「さあ、行きましょう」と言った。
「すみません。お世話になります」と父は言った。
 しばらくして、父は戻ってきてベッドに入った。テレビを見た。そして爪楊枝を取った。

posted by 望光憂輔 at 13:38| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

デザート

 病院の中で僕は何度か高熱を出すことがあった。夜、看護師さんが僕をベッドから連れ出して、どこかへ連れて行く。ふらふらと僕は自分がどこへ行くのかわからなかった。薄明かりが灯る場所に座らされて、目の前には普段食べたことのない幾つもの果物が硝子の器に盛ってあった。「さあ、食べなさい」頭は、重くじんじんとしていたけれど、体がおいしいおいしいと言ってそれを食べた。「誰にも言ってはいけないよ」あれは、何かの褒美だったのだろうか。彼女は僕の味方だった。どんな世界にも、必ず味方はいるのだと僕は信じた。自販機コーナーのゴミ箱に、空き缶を捨てた。
 戻ってきて机の上には他にも爪楊枝や箸箱やキャラメルやボンタンアメの入ったカゴなどがあったが、それをどこへやるかもわからないし、またそうしなくてもそれなりにスペースは空いているようでもあったので、結局は缶を捨てただけで片付けは終わった。黄門様に歯向かおうとした悪代官は、助さんがえいっとやると消しゴムのように倒れた。水戸黄門が終わると、チャンネルは東京ガールズコレクションに変わった。父の足が小刻みに動く。

posted by 望光憂輔 at 00:09| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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