2010年09月02日

キミの名は

 芝の上を歩いた。
 小さな花を見つけた。白い花、桃色の花、黄色の花が、芝の所々に咲いている。
 僕は芝の中に立ち止まり、病院を見上げた。最初に見た時よりも、病院は遥かに巨大になっていた。たくさんの窓があった。父のいる4階の上にも、まだまだ部屋があるようだった。僕の知ることのない人々が、そこにはいる。
 お父さん、この花は、何て言うのでしょうね?

posted by 望光憂輔 at 16:16| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ケーキ

 ブルーベリーのムースを選んだ。おいしい! しあわせなほどおいしかった。

 しかし、あんなに食べられなくなるとは……。前はキャラメルまで食べていたのに、今はお茶さえ飲めない。それでも定期的に、誰かがお茶を入れにくるし、未だに同じような食事を運んでくる。一ヶ月の間に、何があったというのだ。たったの一ヶ月じゃないか。

「缶詰を開けてくれ」一ヶ月前の父が言った。

 おいしくて、しあわせを感じた瞬間かなしくなってしまった。泣いた。おいしいばかりに、泣いてしまう。おいしくなければ平気だったかも知れないのに。泣こう。いつまでも泣いていよう。ここは僕の知らない街だ。遠くの席で、誰かの笑う声が聴こえる。本を開いてそのまま開いたままにしておこう。僕は、本を読んでぼろぼろ泣く変な人だ。壊れたアンテナを持った奇妙な読書家が一人いるだけだ。

 大きな瓶に入ったラー油色の液体は何だろうか? どこにも答えがない。
 悲しみはどこからでも湧いてくる。けれども、しあわせは、努力して見つけ出さなければならない。どこですか? ここはどこですか? 迷子が泣いているとしても、別段珍しい風景でもないに違いない。ここは病院傍の喫茶店なのだから。ケーキがおいしい。
 食べる。努力。食べさせる。努力。
 食べるということは、なんて大変なことだろう。

 カーテンを閉め切って、僕は世界の中にひとりでいることを選んだ。どんな光も眩しく疎ましく感じられるだけで、僕が思うのは地底深くのこと、火星の空のこと、無口な恐竜たちのことばかりだった。いずれは尽きる命なのに、平気な顔で過ごす人々との間に触れ合いや理解など得られるはずもなく、少しくらいわかり合える気がするのは、遠いラジオの向こうで手紙を読む一つの声と一匹の犬だった。僕を混乱させたのは母のかなしみと父の怒りだった。

「おまえは霞を食べて生きていくのか」
 父が言った。僕は15歳だった。

posted by 望光憂輔 at 14:39| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

うどん屋

「電話が下手なのよ」
 待合室のソファに座りながら、母が言った。姉から掛かってきた電話に出られなかったのだと言う。どのボタンを押してもいいというのはわかっているのだけれど、どういうわけか出られなかったと言う。仕方なくメールを送ったけれど、文章が途中で切れてしまったと言う。そう言えば母に電話した時、着信音がしばらく続いた後に切れてしまうことが何度かあったことを思い出した。

「3日前まで車を運転していたのにねえ」
 入院前のことを振り返って、母が言った。
 そうだ。一ヶ月前は、テレビを見てキャラメルの箱の裏を眺めていたのだ。

「駅にうどんができた」
 母が言った。肉うどんを食べておいしかったそうだ。この前はおみそ汁を注文したと言う。「おみそ汁だけですか?」と訊かれて、おにぎりも頼んだと言う。おにぎりは、その場で握ってくれて、とてもおいしかったと言う。
 僕はふんふんと聞いていた。この辺りにできるのはうどん屋以外ないのだと思った。

「明日、朝家の草を引こう」
 母が言った。

posted by 望光憂輔 at 00:10| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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