2010年09月03日

授業

 あの時、病室にはたくさんの希望の窓が開いていたのだ。大昔のような気がした。もう一度戻りたい。一ヶ月巻き戻るだけでよかった。あの時、僕は父の横のベッドに座り、窓の外を見て泣いていた。しばらくして父は横を向き、テレビをつけたり消したり、何度も何度もチャンネルを変えたりして院内放送を探し始めたのだ。看護師さんがやってきて、そのことを訊ねたり、「あなたには大切な仕事があるのだから」と優しく言ったりしたのだ。院内放送が休みだとわかった後も、もう一度気になって看護師さんを呼ぼうとしたり、チャンネルを変えたり、缶詰を開けてくれと言ったり、キャラメルを食べたり、箱を眺めたりしたのだ。机の上を片付けてくれと言ったり、ベッドを起こしてくれと言ったり、全粥を自分でかき込んだり、薬を開けてくれと言ったり、あれは誰だと訊いたりしたのだ。今の父は、ずっと上を向いたままイビキをかいている。上を向くにも程があるというものだ。父を見ないように目を閉じても、イビキが聴こえてきて、現実に引き戻す。

 こんな粗末な椅子に座るものか。僕は立ったままノートをとっている。父の授業だ。眠ったままの授業だ。イビキばかりの授業だ。とても厳しい。耳を澄まさなければ、何を学ぶべきかわからない。ヒントの一つもない。不親切で、厳しすぎる先生だ。

「先生、わかりません!」

 はぁーっと先生があくびをした。

posted by 望光憂輔 at 23:09| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あなたは誰?

「また来るからね。明日また来るからね、お父さん」
 ずっと昔、何度も聴いたことがある言葉だ。
 また来るね。それはさよならの言葉だ。父は答えなかった。母は帰って行った。

「今何歳?」
「誕生日は?」
「ここはどこ?」
 カーテンの向こうで問いかける声がする。おばあさんはスラスラと答えた。
「今日は何日だ?」
 父の言葉が、随分遠くから聴こえる。

 もしも僕が絵描きになったら、この壁に窓を描こう。窓の外には何を描こう。海を描こう。大きな海だ。

「担当は私になりました。大山です」
「大山さん」
「はい、右手を上げて」
「名前は言える? 田原 何さん?」
 父は、何も言わなかった。大山さんは、困ったように笑った。
「大山さんは言えたのに……。言えるでしょう?」
 そうだ。父は突然にしゃべることがある。完全に言葉を失ったわけではない。いったい父は、どれくらいわかっているのだろう。なぜ眠ってばかりいるのだろう。父は、また激しくイビキをかきはじめた。

「何歳?」
「ここはどこ?」
「誕生日はいつ?」
 壁の向こう側で、また違う人に同じ質問が繰り返される。ここはそういう場所だ。
 もうすぐFさんがやって来て、大きな声で父を励ますに違いない。今の父にはないその溌剌さが懐かしくて、僕は泣いてしまうのだ。


posted by 望光憂輔 at 20:55| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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