2010年09月14日

小さな声

 もう探すところがないと母が言う。保険証がなくなったのだ。

「ラジオがあるよ」
 鉛筆がある、鉛筆削りがある、消しゴムがある。引き出しを探りながら、母は色々とあるものについて言った。

『もっとスピーディーなプレーが必要。ピッチの上にソファを出し、葉巻をくゆらせるような選手になってほしくない。もっと飛び出す選手になってほしい』
 新聞には、ワールドカップを巡る記事が幾つも載っていた。
 ピッチの上にソファか……。相変わらずオシムの言うことは面白い。この前は、殺し屋の本能が欠けているとも言っていた。オシム前代表監督だ。

「よく消えるね」
 近頃の消しゴムはよく消えると言う。
 父の体に入る液体は随分と多くなった。オレンジの浮き袋が宙に浮いている。

「お父さん」
 懐中電灯で口を照らした。
「歯を磨いていたのにねえ」

「今日は先生来ないねえ……」
 小さな声で母が何か言っている。とても小さな声だ。静かな部屋だ。

 まちがいが、5つしか見つからない。後の3つがどうしても見つからない。サッカーボールの辺りがどうも怪しいのだが、なんど見合わせても見つからない。どうにも面白くない。
 今日は曇りだ。なかなか雨は降り出さない。

posted by 望光憂輔 at 01:00| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

先生

 父は上を向き、口を開け、静かなイビキをかいて眠っている。目は開けない。今日も駄目か。隣のベッドが空いていた。どこかに引っ越したのだ。また部屋の中が静かになった。いいことだ。
 Fさんがやってきた。2ヵ月振りに見るFさんは、相変わらず溌剌としている。

「先生!」
 呼びかけると父は、顔を動かした。

「もう少し頑張ろうね」

「苦しいけどね。頑張ろうね」

 花の写真がたくさんあって、ピアノがあって、ベッドのままピアノを聴きにいくこともできる。母は緩和病棟の環境について、熱心に説明している。
「付き添いの人も楽ですか?」
 そのためのものでもあります。家族が泊まることもできるんですよ。

平均滞在日数 30日

「お金で部屋を差別するのは、私は気に入らないね」
 Fさんは、きっぱりと言った。
 紫の花模様のタオルケットをかけて父は眠っている。夏だ。

「治療をあきらめるというのが、私はくやしい。脳をもう一度元に戻すことはできないのでしょうか?」

「元が悪すぎたから……。体が、もう弱っているからね……」
 弱っているのは母のようにも見える。父の足先がはみ出している。Fさんが、タオルケットの裾を持ってかけた。首から耳の裏を通り鼻の下に管が伸びている。酸素が送られているのだ。

「引越しの心配はいりません。必ず言ってください。トラックもあるのです」
 ストライプのパジャマは前と一緒だ。髪の毛が少し伸びてきた。

「まだまだ先生は頑張るね」

「先生 また来ますよ!」

「お父さん」

「大丈夫。 先生 わかっています。 今、うんと言いました」
 Fさんは、きっぱりと言った。

タグ:小説
posted by 望光憂輔 at 00:17| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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