2010年09月17日

父の答

 まぶたが微かに動く。一瞬目覚めたような気がした。

「やってみようじゃないか」

「新しい治療か……。 やってみようじゃないか」
 父は言うのだ。僕の父はきっとそう言う。

posted by 望光憂輔 at 23:58| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

果汁1%

「もう一度話せるようになることも?」
 可能性はあると先生は言った。今でも父は話せないことはないのだという。ただ著しい意欲の低下がそれを難しくするのだと言う。途中までは、確かに改善の傾向があった。口から薬を飲まなくなってから、状況が悪化し始めた。もしそうなら点滴注射によってもう一度脳をよくすることができるかもしれない。先生の話では、いずれにしても年を越すことは厳しいということだ。

「緩和病棟を見たらあんたもいいと思う」

「もう弱っているんだから」
 母はもう苦しいことはさせたくないと言うのだった。
 僕はただ話ができたらいいと思う。もう一度、テレビを見れたらいいと思う。

「体を拭きますね」
 看護師さんがやって来て、体を拭いてくれる。

 反対に向きましょう。

 髭を剃りますよ。

 歯を磨きます。

 何から何までしてくれる。父はイビキをかいている。


「桃の果汁をなめさせようか」
 母が言った。
 5月の末以来、父は口から何も食べていない。
「酸っぱすぎてもいけない」
 母は銭湯に出かけて行った。

posted by 望光憂輔 at 23:38| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

夏至

 少し前は弁当ばかり、母は食べていたと言う。
 定食屋で、母はチャンポンを注文し、ビールを一口だけ飲んだ。多いので、少し食べてくれと言った。僕はうどんを食べるのを中断して、チャンポンの麺を啜った。ミルクのようなスープを少しだけ飲んで母に返した。実際よりも、多く見えてしまうのがチャンポンなのだ。まだ食べられた頃、父は寿司が食べたいと言い、よく母が買って行ったのだと言う。けれども、病院のご飯もおいしくて、栄養も充分なため、結局は母が寿司を食べることになったと言う。肉うどんがとてもうまい。できればここに通ってもいいくらいに。

「自転車が来るよ」
 母に言った。けれども、自転車は方向を変えてどこかに行ってしまった。信号が青になり歩き出した。風が心地良く吹きつけた。

「お父さんがねえ……  一緒に歩けたら……」
 突然母が言った。
 夏至だというのにもう暮れている。闇の中だから僕は泣いてもいいのだ。
 みんな突然死ぬじゃないか。誰でも突然死んでしまうじゃないか。
 母の言葉に、共感はできず、精一杯の反論をしなければならなかった。

「そうねえ…… お姉ちゃんも、そう言っていたねえ……」

posted by 望光憂輔 at 22:57| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

現実逃避

僕はいつでも逃げることができます

森と緑と物語とワールドカップの中に

あなたはどこにも逃げられません

絶えず向き合っているのです

僕とあなたはまるで違います


posted by 望光憂輔 at 22:33| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

現実世界

ほんの日常会話が

誰かを傷つけているなんて

夢にも思わないことでしょう

夢にも思わない出来事が

あちらこちらで起きているのです

posted by 望光憂輔 at 22:20| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

対比の雨

 あのおじいさんが患者なのだ。明日手術をするのだ。何事かを相談する会話が聞こえてくる。よく聞こえてくる。父は時折咳き込むばかりだ。
 誰も来なければよかったのに。会話なんてなければよかったのに。

「お茶を入れましょう」
 カーテンの向こう側にお茶を持った人がやって来たのだ。もう、こちらには関係のない人だ。

「お茶はいいでしょう」
 おじいさんは言った。
 何気ない会話がいくらでも聞こえてきては、とめどなく僕を追い詰めていくのはどうしてだろう。何気ない会話がどうしてだろう。
 母が帰ってくる。
 泣いてはいけないと思う時に、どんどん涙があふれてくる時がある。どうして制御できないのだろう。

 薬局にはなかったと言う。
「歩いてみる」
 他の薬局まで歩くと言って、母はもう一度出て行った。

 父の喉が苦しそうだ。猫のように唸り始めた。うがいをしながら歌う時のようになった。
 普通の会話が漏れてくるくらいなら、粗末な椅子の部屋でもない部屋の方がよかった。奇妙な歌や婆さんの泣き言ばかりが聞こえてくるあの場所に、戻して欲しかった。また、対比が角度のないところから打ちつけられて、僕の正気を引き裂いてしまう。
 父は、どれだけわかっているのだろう。わかりようもなく、伝えようもない。
 誰かの投げた紙飛行機が山を目指して飛んでいった。きっとあれは白い鳥なのだろう。

posted by 望光憂輔 at 21:37| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

若返り

「ここはどこ?」

「名前は?」

「お父さん、随分若くなったねえ」

 生年月日が、徐々におかしくなったそうだ。30歳になったり70歳になったりしたそうだ。間違えたと言っては笑ったという。ずっと間違え続けてくれればよかった。僕が知っているのは、間違えずに日付を答える父だけだった。父は間違えなかった。2ヵ月を遡り、間違える日々の間にもっと会えばよかった。僕が後悔していることと言えばずっとそのことだった。そして、同じくらいに、2ヵ月前の一日に、父と2人きりで会えたことに感謝もしている。随分と昔のことのようだ。
 今の父は、寝ているのが当たり前だ。眠り続けるのは当たり前だった。この部屋なら、僕は隣のベッドで眠ることもできる。

 パズルは幾つも解いたと母は言った。
「お父さんのことを思い出すとねえ」
 けれども、思い出した瞬間泣いてしまったと母は言った。
 母は、買い物に出かけていった。

posted by 望光憂輔 at 21:12| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

結論?

「どうですか?」
 担当の先生がやって来て、先生らしい大声で言った。父は微かに首を動かした。

「結論は出ましたか?」
 母はだいたいの家族の意見はまとまっていると言った。ただ、弟の方はどうだろうかと言った。
 今から緊急のオペがあると先生は言った。水曜日ならと言った。水曜日には、僕はもう帰っている。8時半ならと言った。夜でしょうかと母は言った。明日朝、少しだけ先生の話を聞けることになった。朝早くから、先生も僕も大変だ。

posted by 望光憂輔 at 20:48| ソロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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