2010年11月08日

旅立ち

「黒豆食べてたでしょ?」
 タコおかあさんが言う。
「黒豆黒いから嫌!」
 最もなことを言うユウちゃんは昨日から熱を出して、今朝はとうとう39度を超えているのだった。子供というのは、大人と比べて頻繁に熱を出すものだから、大事なのは熱そのものよりも種々の症状の方なのだから、そんなに心配はいらないと言っていたタコおかあさんも、いよいよのん気な事は言っていられなくって、父が使っていた古いパソコンを開いて市の病院に検索をかけている。町にある病院の診療は午後からで、やはりそんなのん気に構えてはいられないのだった。パソコンの隅の時刻は、8時間ほど狂っていた。
 ユウちゃんは、病院を注射を嫌がって泣き叫んでいた。一年前のユウちゃんならば、平気だったことも、痛みや悲しみを覚え始めた今では、もう医者や注射は恐怖の対象となっているのだった。
「ユウちゃんは強いんだから」
 泣きながら兄の車に押し込まれるユウちゃんに言うと、ユウちゃんはきゅっと唇を閉じた。
「それではここでお別れね」
 僕はもう昼に家を出るので、姉は別れの手を振った。ユウちゃんは、それどころではない。

 杖をついた老人が、車庫の隅に腰掛けている。隣のデイホームに通っているおじいさんだ。少し頭が弱っているのだと母は言った。
「先日はお見送りありがとうございました」
 母が近づいて礼を言った。
「先生はやかったね」
 優勝投手について言うように、言った。
「そうです。入院の3日前まで、車を運転していました」
 おじいさんは、頷いた。杖の先が、点々とコンクリートを突いている。
「うちにもよくきてもらったからね」
 それからまた余白が生まれる。余白の中にかなしみが生まれる。
 兄の車が出て行った後の車庫は空っぽだった。
 母と一緒に車庫の奥の不用になった段ボール箱や、道具などを片付けた。ハルちゃんがやってきて、色々と相談に乗ってくれた。僕はタイヤを抱えてハルちゃんのトラックの荷台に載せた。車庫の隅にはホワイトボードが掲げられ、今月の予定と上に大きく書かれてあった。予定はあまり埋められておらず、金曜の下に赤い文字でゴミの日などと書かれてあった。7月に書き換えるようにと母が言ったので、僕は6を7に書き換え、6月のすべての日付を消して7月の数字を書いていった。前半は手に力が入らず、いい加減な数字を書いてしまったので、後半は少し気を取り直してしっかりとした数字を書いた。

 予想よりも早く兄の車が帰ってきた。ユウちゃんは、普通の風邪で心配はいらないという。口を開ける時にはひどく嫌がり、お医者さんに噛み付いたらしい。間に合ったので兄に駅まで送ってもらうことにした。
「金はあるのか?」
 ここ数日の間、何本も兄から煙草をもらっていたこともあり、余計に心配をかけたのかもしれなかったが、兄がこのようなことを言うのは珍しいことだった。車は橋の上に差し掛かり赤信号で止まった。
「大丈夫」気遣いに対するうれしさと、気遣わせたことのかなしさの中で、僕は大丈夫と繰り返した。
「ありがとう。また8月に」
 窓の向こうで駅長は電話中だった。こんにちはと頭を下げた。電話が終わるのを待って切符を買い、誰もいないホームへと渡った。ホームの向こうにはまだたくさんの緑があり、どこからともくさえずりが聞こえた。すぐ向こうに天国への道が続いているように思われた。

 僕はゆっくりと進む列車を選んだ。列車は各駅に止まり、時々はその場で休みさえした。聞いたことのない駅名ばかりが続き、ゆっくりと日が欠けていくのがわかった。どれくらいのはやさで進んでいるのか、どれくらい目的地へ近づいているのか、よくわからなかったが、真っ暗になる頃には着いているはずだというくらいの自信があった。ゆっくりと進む列車に乗っている人は僅かだった。そして、だんだんと少なくなってゆくように思われた。ものしずかな車内のどこかから聞こえてくるすすり泣くような声、それは消灯時間前の病室に似ていて、僕はもう一度流れ出してしまう。お父さん。だけど、これで終わりにするよ、きりがないからこれで終わりに……。家から持ってきた父のハンカチで、僕は顔を覆った。

「次は尾道」
 知らなかった。尾道がこの辺りにあったこと。
 列車は、尾道に止まった。しばらく、止まったままだった。



                       終



ラベル:小説
posted by 望光憂輔 at 16:09| はやかったね | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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