2011年05月16日

日曜日の犬

 種を蒔いて水をやると夕方には芽が出て、翌朝にはサッカーボールになっている。きれいに土を払って生まれたてのボールを持って公園に行ってドリブルをする。「これは僕のボール」とボールを置いて、自販機に飲料を買いに行く。「誰がこんなところに?」子犬が、ボールをついて持ち帰ってしまう。「待ってくれー! 人間と遊ぶのは案外楽しいもんだよ。信じてくれてもいいんだよ」けれども、子犬は行ってしまう。信じるに足りるには、具体的な例題が欠けていたからだ。「待ってくれー!」僕は必死で子犬を追いかけた。もう少しで子犬に追いつくことができる。ボールを持っている分だけ子犬は遅かった。けれども、その向こうから鬼が現れたので、今度は僕が逃げる番だ。

「逃げるから、追いかけてくるんだぞ」
 父が、言った。日曜日の犬が耳を垂らしながら追ってくる。僕は捕まるのが怖くて、逃げ出してしまう。すると、日曜日の犬はどんどん追ってくる。
「早く日記を書きなよ」と犬は言った。
 僕は逃げる。逃げるためのフェイントは野性の小鹿やシマウマから学んだ。川に飛び込むとみせかけて、公園のジャングルジムに登った。けれども、犬は追ってくる。尻尾を絡ませてジャングルジムを登ってくる。その顔は鬼であり、さっきまで柔らかだった耳は尖った角だった。鬼が怖いのか、捕まって、自分が鬼になるのが怖いのか、わからない。ブランコに乗って、五月の風に乗って、四丁目の向こうへ逃げ出した。日曜日の犬は、それでも舌を出しながら追ってくる。
「早く日記を書かないと食べちゃうよ。日曜日の記憶を食べちゃうよ」
 有刺鉄線を越えて、僕は校内に入った。大切なゴールを消されてしまうわけにはいかない。そのたった一つのゴールに結びつくまでの一瞬一瞬、小さなゴールを取り囲む空、風、声、何もかもを僕はまだ覚えていたい。
「時間というのはね、追われているくらいの方がいいんだよ」
 暇そうにしていた校長先生が、言った。
「追ってくるのは、日曜日の犬です。ほら、声が……」
「何か、おいしい匂いがするのかね?」
 花瓶一つが置かれた校長室の机の上で、僕は日記帳を広げた。

 ○月 ○日 (はれ)

posted by 望光憂輔 at 21:07| コサルビト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ロストハイ

 鉛筆を探している途中で、またしても国勢調査員がドアを叩いて生活の満足度を調べようとするので、僕はペン立から鉛筆を引き抜いてドアを開けた。既に調査員は逃げ出した後で、地面に散らばった蛇の皮だけを残していった。大きな皮は手で取って、残りは足で蹴散らした。
 インターホンが壊れているので郵便受けの中には、不在通知ばかりが入っている。本当はいるのにいないことにされてしまうのだ。街の中で個人情報を撒き散らした後で、最後に不在通知に書かれた番号を告げると、もうそれは期限を過ぎたため元の場所に帰った、と彼女は言った。「待っていなさい」また送ってくるから、その内に、と彼女は言った。なんだったらゆうちょ銀行の電話番号を教えてあげるけどと言うが、僕はもう眠たくなってしまった。

 ランドリーの硝子扉には、『喪中』という貼り紙が貼られていた。中には、盗難注意という貼り紙や、防犯カメラ作動中という貼り紙もある。歩いて15分のところにそのいつでも開いているランドリーはあった。もっと近くにもあったが、洗濯機が1台しかなかったり、乾燥機しかなかったり、清く正しく美しくなかったりしたので、いつもそこまで歩いていくのだった。歩く時間としては、片道15分はちょうどよい感じだったし、何よりそこは広々としていた。まちまちの時間に行くのに、いつ行っても管理人のおばさんが掃除をしていた。それほど徹底的に管理されたランドリーを僕は他に見たことがない。おばさんは、今日に限って留守だった。

「ささないのならちょうだい」
「これは上級者用の傘なんだ」
 雨がちらついていたが、風が強すぎたので僕はまだ傘をささなかった。
「ささないのならちょうだいよ」
「風に向かってささないと骨が折れてしまうよ」
 僕は風に向かって傘を開いて見せながら、女の子に説明した。
「何をしているの?」
「風に負けないようにするんだ」
「何をしているの?」

 紅茶を置くと女はそのまま店を出て、看板を下げ帰ってきた。
「この本の縁はどうして青いのです?」
「さあ。絵の具が余っていたのでは?」
「余っているのなら私にくれればよかったのに。イーグルスは好きですか?」
 しばらく前はラジオ放送だったのに、今ではイーグルスがかかっている。
「そこそこ好きです。時々」
「私を青い鳥にすることだってできたはず」
 女はそう言って手洗いの奥に消えた。閉店の準備をする慌しい音が漏れ聞こえる。
 壁に張り付けにされた時計が開いて、中から鳥が飛び出してきた。意味のわからないことを叫んでいる。
 紅茶の香りと薄く浮んだレモンが、まだ幼かった日々のことを思い出させた。どうして、今日は紅茶を頼んでしまったのだろう……。

 女の子は友達と一緒にシャボン玉を飛ばしていた。幾つも連なった小さな玉は、生まれて間もなくして消滅してしまうけれど、稀に大きくなった玉はそのまま飛翔して、雲へと近づいていった。傘は、閉じたまま道に落ちていた。
 スニーカーの1つがなくなっていた。忘れ物籠に入れておいた洗濯袋もなくなっていた。油断のならない町だ。先月、管理人さんにも注意されたばかりだった。束の間そこに鞄を置いて、振り返った時にそれはない。そういうことがこの前もあったから、大事なものは常に身から一時も離さないように。やはり、管理人さんの言う通りなのだ。
 
「返しなさい。おまえは裸足の方がよく似合う」
 僕は駐車場に逃げてゆく猫を追いかけた。前足の1つにスニーカーを履いた猫は、日常よりも歩きにくそうに見えた。
「全部、おまえが取ったのか?」
 恐らく洗濯袋は別人の仕業だろう。忘れ物籠に置いてあったので、忘れ物ならという軽い気持ちで取ったのかもしれない。あるいは、以前に本当に忘れ物をして、それがちょうど同じデザインの洗濯袋で、たまたま今日それを取りに来たところちょうどそれが忘れ物籠にあったから、堂々と胸を張ってそれを持ち帰ったのかもしれない。だとしたら、それは誰も悪くない。けれども、猫は確信を持って盗んでいった。
「返せ!」
 僕は猫を踏んじゃった。

 スニーカーを履いたピアノは、駐車場の上を越えて、トヨタ自動車の販売店の上空までも泳いで行った。椅子に座った管理人さんが、ピアノを弾いていた。自動車や信号の音、自転車のベルを鳴らす音や人々の話し声に交じって、切れ切れの旋律が落ちてきた。強い風に翻弄されるように、ピアノは舞うので、おばさんの腰掛けた椅子は何度もピアノに引き離されてしまう。その度に、おばさんは必死で指を伸ばして鍵盤を弾こうとした。離されて追いついて、また先立たれてまた追いかけて、そうして途切れ途切れの旋律となって地上に降りてくる。
「わたし、色んなものを失いすぎた」
 また、ピアノが逃げてゆく。今度はジョリーパスタの方へ向けて。おばさんは、なんとか姿勢を保ちながらモノクロの鍵盤を捉え続けた。雨の余韻は消えて、今、西の方からオレンジ色の日が射してきた。解けたおばさんの長い髪の周りには、踊るようにシャボン玉が集まっていた。


posted by 望光憂輔 at 14:32| ピリオド | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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