2011年10月28日

星のサーカス

「何かあるの?」渡り廊下に寝そべりながら訊くと、「サーカス団が来るんだ」と答えた。「サインはした?」ここに居残っているにはサインしておかないといけないのだろうか。「あれは花見のアンケートだと思って」それだから、サインをしたのだったか、しなかったのか結局のところよくわからないのだ。アンケートは確か三回ほど回ってきたのだった。「まあいいんじゃない」と彼が言うからまあいてもいいのかもしれない。「サーカス?」こんなところでサーカスなんて。「これからだんだん人が集まってくるよ」
「サーカスが始まるよ!」崖の上のお兄さんとお姉さんが、右手を突き上げながら叫んでいる。高い高い崖の上からだけど、声は驚くほどよく通った。「世界一のサーカス団がやってくるよ!」お兄さんとお姉さんが崖の上で飛び跳ねるので、山も一緒になって伸び縮みしている。「みんなもお友達をつれてきてね!」お兄さんとお姉さんが叫ぶ度に、渡り廊下の興奮が高まった。寝そべって待っていた人も、徐々に立ち上がってお兄さんとお姉さんの方を見上げ、手を振っている。何人かの人が、お友達をつれに廊下を下りていった。

「駐車場はこっちです」けれども、もうほとんど駐車場はサーカスを見るために集まった車でぎっしりと埋まっていた。「折りたためるものは折りたたんでください」みんなそれぞれの工夫でなんとかして、車を納めようとしていた。みんなサーカスを見るために集まってきたお友達なのだから仲良くしなければならないからだった。「重ねられるものは重ねて置いてください」傷つかないように、タオルを敷いて、車の上に車を置いた。重ねる方も重ねられる方もそれなりに心配があって、三段重ねまでというのが暗黙のルールになっていた。「ちゃんと枠の中に止めてください」もう枠には余裕がなくなっているのは明らかだった。止めることはいいけれど、後で出すことは可能なのだろうか、みんなそのような止め方をしている。新しく来た友達に、僕はマジックを差し出した。「枠がない時は、自分で書き足してね」

「もうすぐサーカスが始まるよ!」お兄さんとお姉さんが飛び跳ねて、勢い余って崖から落ちてしまった。あっ、と渡り廊下の人々は叫ぶけれど、実は大丈夫で、すぐにお兄さんとお姉さんが元気な顔を現した。お兄さんとお姉さんは、一段下の場所に移っただけだった。「さあ、みんな! もうすぐサーカスが始まるよ!」

 サーカス団は庭に舞い降りて、幾つもの手の中で大小様々なボールが飛び跳ねている。それは火のように水のように生き生きとして男の人の手から女の人の手から立ち上がり、空に向かって躍動している。音符のようにリズムを持ってそれは色とりどりの飴玉のように夜に向かってあふれ、絶え間ない運動の中で徐々に成長して天に向かうようだった。渡り廊下のみんなはうっとりとそのサーカスが作り出す生命体を見つめている。ある者はその一つに触れてみようとして手を伸ばした。決して触れることのできない別世界に。それは湯気のように男の子の手から立ち上がり、泉のように女の子の手から湧き上がり際限のない空へ向かってゆく。サーカス団の手の平は永遠の雨を作り出す無限の雲のようだった。無数のジャグリングの中で、ゆっくりとその一団は移動を始めていた。そして、人々は今までその巨大さにも関わらず、それが空を降りてくる気配に気づかなかったが、今それは、目の前に巨大な姿を現したのだ。
 人々の注視の中、ボールはついにサーカス団の手を離れて大きく開かれたクジラの口の中に、吸い込まれてゆく。クジラの目が瞬き、体全体がこの上なく美しく母のように優しく色づいてゆくのがわかる。最後の一つを、呑み込んだ時、クジラは新しい星を生むのだ。今は、誰もが美しいボールの躍動と艶やかなクジラの両方に目を配っていた。その時、男の子の手から離れたボールの一つが軌道を誤って、夜の向こう側へと消えた。その行く末を、誰一人見届けることはなかったけれど、待ち受けていたクジラの様子で人々はそれを知っていた。クジラはしばらく当惑したような表情を浮かべていた。渡り廊下がざわざわとし始めた頃、ようやくクジラは目を伏せてため息をついた。少ししてから、風がやってきた。

posted by 望光憂輔 at 00:15| 夢まち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月27日

異分子

 女の背中が正しく僕をその家まで導いてくれた。女は足を止めず、そのまま先に歩き続けた。女の目的地はここではなく、どこか別の場所にあるようだった。近づきすぎた足を、僕は少しだけ後戻りさせて、自販機の前に来た。家の中に入ってしまうともう、冷蔵庫は自分のものではないのだから、夜中に喉が渇いた時のことが急に心配になったのだ。自販機の冷たい明かりを見つめながら、それは他にも幾つかある内の、その中でもほんの軽度の心配事の一つかもしれないと考えた。笑い声が家の奥から漏れてきて、それは時折、連続して打ちあがる花火のように大きくなった。あの中に、僕が入っていくとどうなるだろう……。高い影が、僕をじっと見下ろしていた。それは自販機よりも遥かに高い、巨人だった。巨人は僕を見下している。この野郎、と見上げる。そして、やはり怖くなって逃げ出してしまった。
 部屋に戻ると中には三人の従業員が待ち受けていた。彼らが何かを言う前に、「強制チェックアウトすか?」と僕は訊いた。叔父さんが靴を脱いで、ベッドに上がろうとしたが従業員たちによってすぐに制止されてしまう。もうくつろぐことはできないのだ。荷物をまとめて帰り支度をした。次はどこに行くのだろう。「今日、面白いテレビある?」従業員に、訊いてみようとしたが、結局は声にならなかった。誰に訊いていいかわからなかったからだ。

 細い眉に平安を思わせる白い顔を兄はして、花を配る準備をしている。すべてが兄らしくない。死んだのは、本当は兄ではないのか。兄は兄ではないのではないのか。「誰かが間違えて入っていったようだ」見てくるようにと兄は言った。
 音もなく這い上がっていく影を追って階段を上がった。どこかで乱暴にドアが開く音がした。耳を澄ますとそれ以上の音はない。踊り場の隅に空き缶が一つ、中には花が一つ、夜に重なり色までがつかめない、僕はこの場所を覚えておくのだ。水の音が聞こえてきて、ドアを開けると台所の蛇口から水が落ちて洗面器があふれ、中では船が回っている。誰もいない。屋上の倉庫に入っていく影を見た気がして後を追うと、階段を激しい足音が幾つも駆け上がってくるのが聞こえ、僕は鉄柱に身を寄せて隠れて様子を見ていた。「異分子が紛れ込んでいる」タンクとホースを手にした青服の男たちが、倉庫の前に集まっていた。間違えて来てしまったのは、僕の方なのか。気づかれないように、ゆっくりと鉄柱を離れて飛行準備に入る。手すりを越えて、僕は飛んだ。時々追っ手が来ていないかを振り返って確かめた。青い物体が、地上をゆっくりと歩いてこちらに近づいてくる。飛行速度を上げて、引き離す。あれは、人間なのだろうか。ゆっくりと歩いているように見えるのにだんだんこちらに近づいている。だんだんと飛行体力がなくなって、僕は高度を下げる。決して走ってなどいないのに、青服は機械仕掛けの着実な足取りで距離を詰めている。その確実性が、僕の生存本能を吸い取っていくようだ。兄のところに戻るべきか、それとも最も人が集まる場所に身を置くのが正しいのか。その時、人は、僕のことを助けてくれるだろうか。地上はゆっくりと近づき、木がそよいでいる。
 明日家に行くと伝えると、姉は短いメールを返してきた。文末には笑顔があった。

posted by 望光憂輔 at 21:08| 夢まち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

青空ATM

 虎が出たら飛べるだろうか。久しく忘れていた飛行の仕草について考えていた。あるいは、火の海に囲われたとするなら。忘れていたのは、きっとその必要がなかったからなのだ。夜の降りたばかりの街の中で、獣の匂いをつけた何かが、夜と同色の毛を逆立てながら迫っていた。振り返れば、僕の顔の中から一方的な恐れのサインを確認して、それは喉の奥から早くも勝ち誇ったような雷鳴を発するだろう。もう一度、僕は飛行の仕草を、過去の中では正確に組み立てられて風の向きや雲の流れを把握していた翼としての手触りを復習する。そう。それはそんなにも難しい仕草ではなかった。真似たり、学んだり、記憶したりする必要のない、自然に備わった、生まれ持った仕草なのだ。大丈夫、大丈夫。三度目の大丈夫と共に、振り返る。力ない足取りで、猫がこちらに近づいてくる。小太りの、黒い猫。猫が歩くと途端に夜は溶け始めて、街には人があふれ始めた。

 一番端の列に並んでようやく先頭までたどり着くことができた。財布の中を確かめてみると、やはりお札は尽きていた。カードを取り出したが、入れるべき口が見当たらなかった。前の人の仕草を注視しておかなかったことを深く後悔する。どこかにそれはあるはずだった。落ち着いて、視野を広く見回す。隣の人が当たり前のように扱っている操作盤の形がどこにも見当たらない。落ち着いて、落ち着いて……。自分に言い聞かせる。ようやく僕は壁の中に突き出した紙切れの存在に気づく。正解のチャイムが胸の中を流れ落ちる。動揺を顔に出さないようにして、ゆっくりと頼みの綱に向かって近づき手を伸ばす。きっとそれは前の人が取り忘れていった伝票に違いなかった。そこには僕が必要とするすべてが備わっているはず。確かに、それは明細伝票だった。けれども、それを手にした瞬間、それは偽物の希望であったことがわかり、僕はその場で膝を折った。何もない……。紙切れはただ岩にくっついているだけだったのだ。本当に紙切れらしく。振り返った時、僕の後ろで待っている人は一人もいなかった。あの列は、今まで並んでいた、あの列はいったい何だったのだろう。そんな疑問を持つ人はここには誰もいない。ATMを待つ人々は皆、大金を手にした時の使い道を考えながら青空を見上げていた。人々は車道にまであふれかえり、そのせいで車は開かずの踏み切りを前にしたように、ずっと停止したままだった。新しく、待つ人々の中に戻る気力は、とてもなかった。コンビニを探して、僕は青空ATMの前を離れる。

 突然に思い出された空腹と、暖簾の奥から漂ってくる肉の匂いが足取りを曲げてしまった。なけなしの金で、今を満たすことは案外素敵なことのように思われた。「いらっしゃいませ」赤いバンダナを巻いた女の威勢のいい声が出迎える。店内は、テーブルもカウンターもほとんど隙間なく埋め尽くされていたが、特にスーツを着た人の姿が目立った。最も近いテーブルの二人はグラスにビールを分け注ぎながら飲んでいた。券売機にコインを投入して、牛丼のボタンを押す。ノートパソコンを閉じて帰り支度をしている若者の姿が目に入った。壁沿いのカウンター席に行こうとするとそこにはまだ食の形跡が残っていたので、思い直して離れる。そうしている間に、別のカウンターの席がばたばたと空く。その一番端の席について、食券を置いた。一つ間を空けて新しくやってきた男が席につく。水を飲みながら待っていると、厨房の奥から、黒いバンダナを巻いた男が出てきて、目の前にお玉を差し出す。「汁はこれでどうでしょう?」僕はカウンターから口を突き出して、お玉から汁を啜り、黙って頷いた。そのような仕草をするのは僕だけで、それは僕が馴染みでない客だからなのかもしれなかった。それからすぐに牛丼が運ばれてきて、僕は勢いをつけてそれを体内へ送り込んだ。残高はちょうどゼロになっていたが、僕はこの上なく満たされていた。


posted by 望光憂輔 at 00:10| 夢まち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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