2011年11月22日

不戦敗

 闇の中を逃げ延びて、迷い迷いたどり着いた夜明け、玄関には貼り紙があって家賃380円アップと書かれている。家の中には誰もいなかった。そして、3つのフライパンには、それぞれ種火が点っていた。「姉ちゃん、火がついていたよ」帰ってきた姉に報告しても、姉は信じようとはしなかった。
「餅ちょうだい!」と言って二人の子供は両方から僕の腕を叩いた。人見知りだと思っていたのが、実はそうではなかったのだ。「餅はね、最近は作ってないんだよ。正月でも、餅は作ってないんだよ」僕はもう出かけなければならなかった。今日が大会当日であることに、当日気がついたのだ。8時半開始とは、いくらなんでも早すぎる! 「行ってきます」と家族に別れを言って、家の周りを回ったがどこにも僕の靴がなかった。裏口や西口や色々なところを探しても、誰かが間違えて履いていったのか、僕の靴はなかった。一瞬、あったと思い近づいていった時、それがよく似ているけれど実は違うということに気がついてがっかりとした。家の周りを何周かして、結局その似ている靴を履いて僕は出かけた。靴を履く瞬間、下駄を履いた老人が僕のことを見ていた。盗人を見るように見られていたのかもしれない。タクシーを拾おうとして手を上げた。ちょうどその時やってきたのがリムジンタクシーだったので、慌てて手を下ろした。もう一度封筒を開けて、プログラムを見返すと7時半から開会式が始まり、確かに試合開始は8時半になっていた。僕は封筒を上げてタクシーを拾った。いつの間にやってきたのか、ドアが開くと複数の男女が一斉に乗り込んだ。僕は呆然とその様子を見つめていた。「いいですか?」と運転手がなぜか僕に向かって微笑んだ。「いいです」そして、僕は地下鉄の階段を下りた。どうせ間に合わないことはわかっていた。遅れながら、確実に近づくことを選んだ。

 階段を下りて長い通路を歩いて、ドアを開けると会場ではお茶会のために多くの人が集まっていた。「地下鉄はどこですか?」誰構わず訊いた。女は、ドアの向こうを指差した。僕はすぐに歩き出した。確実に近づき、近づくごとにまた人に訊いて確実に進んでいくつもりだった。ドアの向こうでは別のお茶会が開かれていて、みんな正座をして座っている。人々の背中をかきわけて、先を急いだ。先頭集団に近づいた頃、1つの背中を振り向かせ「改札はどこですか?」と訊いた。女は振り返り、1つの方向を指差した。「元々そこが正しい道だから」と言った。
 30分遅れれば、棄権とみなされてしまうだろう。遅れて試合に入ればそれだけ大きなハンディを背負ってしまう。けれども、不戦勝となる直前で相手が現れたとしたら、そしてその相手と戦わなければならないとしたら。それもまた少なからずプレッシャーのある戦いになるはずだ。戦うことと戦わないことの差は、とてつもなく大きい。遅れてもいい。遅れるくらいなら遅すぎるということはない。ドアを開けると玄関が現れ、お茶会に参加する人々の靴であふれていた。靴の向きを揃える老人に、「改札はどこですか?」と訊くと、「上だ」と言うので、階段を上った。

 ドアを開けるとすぐにテーブルが置かれ、その端すれすれのところに幾つもの陶器が並べて置いてあった。もう少しのところで、触れてしまうところだった。触れる前から、陶器は各々兎のように震えており、少しでも触れてしまえばテーブルから落ちて割れてしまうところだった。僕は寸前のところで罠から逃れ、引っ込めた両手を下げた。「日本人か?」二人の内の一人が言った。僕は黙って頷く。「江口のドラマは見たのか?」僕は見たと答える。「だったら仕方がない」男はあっさりと諦めた様子で、次の目標物に切り換えるように目を灰色にした。その時、僕は難を逃れた両手がテーブルの下にくっついて離れないことに気がついた。得体の知れない強力な接着力で、くっついている。「おーい!」僕はたまらず抗議の叫びを上げた。「この手はいったいどうなっているんだ!」

posted by 望光憂輔 at 21:13| 夢まち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

東京

 泥の中にはもう今は用済みになった資材や壊れた家具やタイヤなどが埋まっていて、そこが今日の合宿場所に割り当てられていた。一見すると黒いタイヤのように見える中には、明らかに人間の両脚に思えるものがあって、泥まみれになったデニムが黒く光っているように見えた。「人間じゃないか。人間じゃないか」と僕は人に言ったけど、誰も耳を貸す者はいなかった。みんなそれぞれに今の課題に、あるいは遊びに夢中だったからだ。泥のついた体に耐えられなくなって、僕は川の中に飛び込んだ。裸のまま、汚れを落としていると向こうから橋本君がやってきた。集団の中を1人抜け出てきたのだ。「橋本君。もうみんな帰るの?」橋本君は、まだみんなは帰らないと言った。1人で帰るわけにはいかなかった。洗い流した体を、また泥の中で汚さなければならない。

 商店街の中を歩いているとしきりに行き先を案内する声が聞こえた。「渋谷、新宿方面にお越しの方は……」長い商店街の中を歩いていると、突然道が開けて、広場が現れたり市場が現れたりした。浮かない顔をした人々は、それらの横道に惑わされることなく黙々と歩いた。しばらく歩くとタイヤが高く積み上げられた場所に出た。どれもみんな黒いタイヤばかり、大きさや性能を競い合うように並ぶ道が延々と続く、そこはタイヤ工場の一部かもしれなかった。商店街はいつの間にか終わり、夜明けの空が見えていた。巨大な看板には、あるゆるビジネスに向けて、エコパソコンの文字が赤く浮かぶ。1人のストリートミュージシャンの前で、何人かの者は足を止めて聴き入っていた。あるいは、ただ足を止めていた。音階の一部が気に入らないと2人組みの若者が言ったので、演者は2人に楽譜を手渡し、どちらの音を削ればいいかと持ちかけた。しばらくの間、2人はワインの種類を選ぶ時のような眼差しで譜面に顔を寄せていたけれど、突然横からふらふらと入ってきた男が、「俺に任せろ」と言うと、ストリートミュージシャンに向かって殴りかかった。ミュージシャンは右ストレート浴びながら、男を睨みつけると、「俺は金を借りてるだけ」と男は言って走り去っていった。「いいえ、知らない人です」と2人組の若者は否定して、楽譜を返した。ミュージシャンは起き上がり、何事もなかったように演奏が始まる。東京は、怖いところだ。
 電光掲示板がまぶしいほどに、朝はまだ暗かった。新しいフライト通勤プランを説明する文字が繰り返し、流れている。東京の人は、飛行機で通勤するのだろうか。

 駅構内に入り、階段を上った。まだ朝早いためエスカレーターは動いていないのだ。踊り場ではヘルメットを被り、配線工事をしている男がいる。一足先を歩く人は、同級生によく似ていて、僕は追いついてその隣を歩いた。その横顔は、同級生にそっくりだ。じっと見つめていると、男もこちらに気づいて見返した。しばらく見つめ合っていたが、彼は何も言葉を発しなかった。こちらが先に追いついて見つめるという行動を起こしたのだから、もしもその行動の意味がわかったならば、今度は向こうが先に言葉を出すべきだろう。東京に来て、言葉を失ってしまったのか、あるいはもう、友達ではないというのか……。僕は徐々に歩幅を狭め、彼に先を行かせた。彼の足取りは変わらない。容赦なく、先へ先へ進んでいった。電車はもう動き始めているのだろうか。上がれども上がれども階段は続き、改札口は現れなかった。僕は、同じ階段を上り続けているのかもしれない。踊り場では、ヘルメットを被り配線工事をしている男がいる。さっきとまるで同じ姿勢だった。東京は、広い。ガタガタと天上の揺れる音がして、電車が近づいていることに再び希望を持った。長い長い合宿の果てに、何段目かの階段を踏み歩いた先に、突然巨大な書店が現れた。まだ、5時だというのに……。地図を求めて、書店に入った。


posted by 望光憂輔 at 01:48| 夢まち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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