2010年10月23日

魚の握手

「ごめんね」
 そう言う母の発音は、父が亡くなった朝、「お父さんが」と僕に電話越しに告げた時とまったく同じだった。結びついた二つの言葉を、僕はいつまでも忘れることができないだろう。ハナミズキを聴く度に、あの病院の傍の風のレストランでアイスコーヒーを飲んだ午後のことを思い出してしまうように。
 降りる人を押しのけるようにして、バスを降りたが、今度は別段急ぐ必要はまったくなかった。私はここでと町内会館の前でFさんは言った。けれども、数分後にはFさんは僕の隣でご飯を食べていたのだった。
「町内会の人にビールを注がないと!」
 姉が、町内会の島を指して言った。随分遠く離れた場所に、よっちゃんの姿が見えた。
「まだ先は長いじゃないか」
 そう言ってごまかした。(昨日のように遅くまで飲むものだと信じてもいた)
 一人一人回っていたら、きりがないのだし、ビールなんて自分で飲みたい人が飲めばいいのだ。
「さあ、どうぞ」
 僕は、Fさんにノンアルコールビールを注いだ。
「もう、あなたもじっとしていなさい。疲れただろう」
 Fさんは、もうそんなに気を使わないよう、いちいち遠方までビールを注ぎに回らないよう、ゆっくりするように言ってくれた。僕も安心して、ゆっくりと刺身などを食べることにしたのだった。
 僕の前には見慣れないおばあさんが座っていて、町で一番高い山の話をした。「何メートルくらいあるのでしょう?」富士山よりも高くないということはわかったが、はっきりとした高さがどうも思い出せなくて困った。おばあさんは、山のこと、山登りにとても関心があるようで、話す内に僕は、ああ、ノリちゃんのお母さんだったとよくやく思い出した。
 誰かがビールを零して、上着にかかってしまったと言い、僕は台所にタオルを取りに走った。隅っこに置いていた僕の上着ではないとわかり、少しほっとした。
「煙草は吸うんですね」
 しみじみとした手つきで、Fさんは会館の縁に腰掛け、外に向かって煙を吐いていた。こればっかりはやめられなくて、とFさんは言った。いつの間にか母が傍にいて、Fさんと話をした。いつの間にか兄がいて、気がつくと姉もいるのだった。そうして家族でFさんを囲んで、お礼を言って、見送った。
「ありがとうございました」
 町内会館を出てみんなで見送った。高い鉄棒のように凛々しく立ち上がるFさんは、若い頃の父のようだ。最後に僕は魚の匂いのついた手で、Fさんと握手をした。どうしても握手がしたくて、いつかしようと思っていたのだ。
「よく似ているね」
 眼が父に似ていると言われて、僕は最後もまた泣いてしまった。あなたの方こそ、似ているのだ。


posted by 望光憂輔 at 13:28| はやかったね | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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