2011年09月30日

猫と五千円札

 別館への廊下を歩いていると駐車場に出てしまった。五千円札を抱いた猫の向こうに海が開けていた。小さい猫だからといって、我先に奪って行くような、そんな奴は信じられない、と彼は言った。
「そうだね」
 何気なく出た相槌が、深い共感を帯びて自分の耳に響いた。猫は札を抱いたまま安心して眠っている。どこでもらったのか、誰から預かっているのか……。
「僕は行くよ」
 彼は行ってしまった。湖の色が黄色から緑色に変わり彼方から紙の船が近づいてくる。通り過ぎる人は、誰も猫に関心を示さずに通り過ぎた。けれども、そよ風に撫でられて猫は寝返りを打った。五千円札はまだ猫のすぐ傍にある。

「昼はどうする?」
 少女の声が聞こえ、同時に、そんな奴は信じられないという彼の声が再び聞こえてきた。風が徐々に猫と札との距離を離し始めていた。もうすぐ誰かが目に留めてしまうだろう。悪意のない風が、誰かに悪意を吹きかけるのだ。
 船から男が降りてきて、彼女に追いついた。彼女の質問は、父に向けられたものに違いない。
 一台のバスが着いて、旅行途中の子供たちが降りてくると、猫の周りを取り囲んだ。猫は驚いて目を覚ます。自分の手の中にあるべき何かを探して振り返るけれど、そこにいるのは白い息を吐いて、短い言葉を操る子供たちばかりだった。「かわいい!」「まだ子供よ」

 今落ちたボタンを拾うようにして五千円札を手にすると、僕は封筒に入れた。
「キミの恋人に返さないと」
「あれはクジラよ」
 猫は、驚いたように言った。クジラとはどういう意味だろうか。僕は猫を抱いて、レストランへと歩き始めた。


posted by 望光憂輔 at 01:39| 夢まち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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