2011年10月18日

タイムライン

 前の座席にはあの彼女が座っている。僕のことに気がついているのだろうか。僕は眠ったふりをしなければならないが、本当はそうしたくはなかった。外国人が食べ物を運び回っているからいけないのだ。こんな時間に眠っているとしたら、彼女は僕の生活リズムを疑うことだろう。いったいどういう暮らしをすれば、そんなに疲れ果てたように眠ることができるのかと疑うはずだ。「おいしいお米パンができましたよ。一ついかがですか?」ありがとうございます、とお婆さんの声がする。駄目だよ。お婆さん、それを食べたら駄目なんだ。僕の叫びは、お婆さんの耳には届かない。魚が逃げてしまった。

 まな板の上には、脱ぎっ放しの制服が置いてある。調理の邪魔になるということがわからないのだろうか。そもそも服は、ハンガーなどに掛けるもので、まな板に置くものではないはずだ。主張はたくさんあるはずなのに、僕の言葉は控え目だ。「制服、あなたのでしょう」問うような、教えるような、曖昧なことしか言えないのだ。お椀に蓋がついたようだった。料理長が新しくつけたのだ。「高級感が出ましたね」と僕は言って、お椀の蓋を開けてみると、白いご飯の上に緑の葉っぱが一枚だけ載っていた。「狸丼だよ」魚が逃げてしまったので、メニューが変更になったのだという。僕は寂しい気持ちに蓋をして、更に深くタイムラインを遡って行った。

 シュートだ、と適当な叫び声が聞こえる。キックインからシュートなんてない話だったし、その上僕はもうラインの外に倒れ込んでしまっていた。蹴ることなんてできない。辛うじて触れることができたとしても、ボールは前には転がらない。気持ちは足で、実際には手を使って、なんとか放り込んだボールは、順調にタイムラインの上を滑っているようだ。何てことのない風景が、何てことのない感想が、そこにはあって、にもかかわらずだんだんと引き込まれてゆく自分があった。次へ次へと時間を遡る。囁かれた言葉と同じ場所に立ち、接続された言葉の間を縫って歩いた。好き。僕はこの人のことを好きになった。好きになって進んでゆくとそれはますます好きになってしまった。一度通った言葉の上も、好きになった自分の目で見るとそれはまた別の意味合いを持って輝き始めた。僕は、この人とともだちになるんだ。突然、現れたともだちの影に、僕は泣いてしまう。終着駅。

 あの彼女はもういない。パン売りの外国人も、みんないなくなっていた。数少なくなった乗客の中の二人が僕の前を歩いて行った。階段を上がり、階段を下り、次のプラットホームにたどり着いた。「どこへ行こうか?」女の一人が言い、もう一人は何も言わず手の中にある地図にじっと視線を落としている。僕は二人の前を通り過ぎて、再び階段を上り、下り、正しい出口を探した。改札はまだ見えず、代わりに海鮮を歌う旗が見えた。誘われるように近づくと、カウンターの上を生きた魚が回っていた。


posted by 望光憂輔 at 02:04| 夢まち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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