2011年10月18日

崩壊

 面白い話でも書いてよと真っ白い葉書を手渡す、レンズの奥の眼は笑っているようにも見えた。一年間あげると言われてもわからないのに、今すぐ書けと言われて書けるはずはないのだった。けれども、不意に与えられた切迫した情況だからこそ、何かが目覚めて今までなかったものが偶然生まれるということはないだろうか、と同時に思う。不条理な状況がわくわくするチャンスのように思え、突然、心臓が弾むように鳴った。葉書を手に取って、机の真ん中に置いた。その白さを見つめている内に、胸の中で弾むものは落ち着きを取り戻し、冷静さが返ってくるとやはり何もかも無理だと思え、何も変わることはないのだと悟った。紙飛行機を折って飛ばしてしまいたい誘惑と戦いながら、時は過ぎて行った。窓を開けると工事の音がし、さわやかな風の後に煙たい灰色の空気、冬の結晶のような塵が入り込んできた。面白い話を書くためには、準備が足りなかったのだ。「貸してみろ」いつの間にいたのか、いろはカルタを取るようにチーフが机の上の葉書に手を出した。
 チーフは、葉書いっぱいに木のイラストを描いた。これを塗ったら休憩だと言った。ありがたかった。今の僕にはお似合いの仕事だった。鉛筆を手にとって、自然に輪郭づけされた木の中を灰色に塗っていった。「直にここはなくなるぞ」とチーフが言った。

 ショベルカーがビルを押し潰す度に土煙が上がった。チーフの描いた木もなぎ倒されてしまった。リサイクルカーが、冷蔵庫やテレビや洗濯機を運んでいる。「あれは無料で引き取ってくれるの?」見物人の一人が訊く。「無料ですよ。リサイクルは無料。そのためにみんなで税金を納めているんです」通りすがりの婦人が答えた。見物人の中に交じって、建築物が破壊されていく様を、僕も見ていた。リサイクルカーが近づいてきて、少し危険を感じて一歩二歩後退した。土埃のせいで喉が痛い。彼は、リサイクルカーが近づいてきても、決して動こうとしなかった。彼と話をしている彼女も一緒だ。何かを話しているが、騒音にかき消されて聞こえない。動き続ける唇、時折緩む、彼女の唇。きっと恋の話をしている。ついに、リサイクルカーの中から男が出てきて、二人に下がるように手を振って命じた。彼は、一歩下がり、彼女も影のように動いた。土そのもので、僕の口の中はいっぱいになっていた。コンビニに入ったが、中は真っ暗で、もはやほとんどの商品は消え去っていた。棚の下の方に、僅かに文房具の類が忘れられたように残っていた。「喉にビスケットが詰まったから先に帰るよ」喉を言い訳にして、僕は二人から離れた。エスカレーターですれ違った男が、僕を見てニヤリと笑った気がした。

 地下街を歩いていると、すれ違った男が戻ってきて、僕に殴りかかる振りをした。そして、笑った。「驚いただろう?」と言う。無視して歩いていると、男はなおもつきまとってきて、しきりに威嚇の動作を繰り返すのだった。「やるぞ、やるぞ」と男は言い、笑った。まるで知らない男だった。わけがわからず、実際に何も被害がないだけに、どうしていいかもわからなかった。男は、いつまでもついてくる。もういっそ、殴られてしまいたかった。威嚇の度に繰り出される手から、遠ざかり逃げることなく、むしろ近づきさえしてみた。けれども、男は器用に距離を取りながら憎たらしい笑みを絶やすことはなかった。歩く速度を上げると男もそれに応じた。ついに、こちらから切れてしまう。「やれるもんなら、やってみろ!」その瞬間、声は、自分の耳にだけ届いた。声が時間を崩壊させたのだ。白い葉書の真ん中に、僕は立っていた。

posted by 望光憂輔 at 23:03| 夢まち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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