2011年10月27日

青空ATM

 虎が出たら飛べるだろうか。久しく忘れていた飛行の仕草について考えていた。あるいは、火の海に囲われたとするなら。忘れていたのは、きっとその必要がなかったからなのだ。夜の降りたばかりの街の中で、獣の匂いをつけた何かが、夜と同色の毛を逆立てながら迫っていた。振り返れば、僕の顔の中から一方的な恐れのサインを確認して、それは喉の奥から早くも勝ち誇ったような雷鳴を発するだろう。もう一度、僕は飛行の仕草を、過去の中では正確に組み立てられて風の向きや雲の流れを把握していた翼としての手触りを復習する。そう。それはそんなにも難しい仕草ではなかった。真似たり、学んだり、記憶したりする必要のない、自然に備わった、生まれ持った仕草なのだ。大丈夫、大丈夫。三度目の大丈夫と共に、振り返る。力ない足取りで、猫がこちらに近づいてくる。小太りの、黒い猫。猫が歩くと途端に夜は溶け始めて、街には人があふれ始めた。

 一番端の列に並んでようやく先頭までたどり着くことができた。財布の中を確かめてみると、やはりお札は尽きていた。カードを取り出したが、入れるべき口が見当たらなかった。前の人の仕草を注視しておかなかったことを深く後悔する。どこかにそれはあるはずだった。落ち着いて、視野を広く見回す。隣の人が当たり前のように扱っている操作盤の形がどこにも見当たらない。落ち着いて、落ち着いて……。自分に言い聞かせる。ようやく僕は壁の中に突き出した紙切れの存在に気づく。正解のチャイムが胸の中を流れ落ちる。動揺を顔に出さないようにして、ゆっくりと頼みの綱に向かって近づき手を伸ばす。きっとそれは前の人が取り忘れていった伝票に違いなかった。そこには僕が必要とするすべてが備わっているはず。確かに、それは明細伝票だった。けれども、それを手にした瞬間、それは偽物の希望であったことがわかり、僕はその場で膝を折った。何もない……。紙切れはただ岩にくっついているだけだったのだ。本当に紙切れらしく。振り返った時、僕の後ろで待っている人は一人もいなかった。あの列は、今まで並んでいた、あの列はいったい何だったのだろう。そんな疑問を持つ人はここには誰もいない。ATMを待つ人々は皆、大金を手にした時の使い道を考えながら青空を見上げていた。人々は車道にまであふれかえり、そのせいで車は開かずの踏み切りを前にしたように、ずっと停止したままだった。新しく、待つ人々の中に戻る気力は、とてもなかった。コンビニを探して、僕は青空ATMの前を離れる。

 突然に思い出された空腹と、暖簾の奥から漂ってくる肉の匂いが足取りを曲げてしまった。なけなしの金で、今を満たすことは案外素敵なことのように思われた。「いらっしゃいませ」赤いバンダナを巻いた女の威勢のいい声が出迎える。店内は、テーブルもカウンターもほとんど隙間なく埋め尽くされていたが、特にスーツを着た人の姿が目立った。最も近いテーブルの二人はグラスにビールを分け注ぎながら飲んでいた。券売機にコインを投入して、牛丼のボタンを押す。ノートパソコンを閉じて帰り支度をしている若者の姿が目に入った。壁沿いのカウンター席に行こうとするとそこにはまだ食の形跡が残っていたので、思い直して離れる。そうしている間に、別のカウンターの席がばたばたと空く。その一番端の席について、食券を置いた。一つ間を空けて新しくやってきた男が席につく。水を飲みながら待っていると、厨房の奥から、黒いバンダナを巻いた男が出てきて、目の前にお玉を差し出す。「汁はこれでどうでしょう?」僕はカウンターから口を突き出して、お玉から汁を啜り、黙って頷いた。そのような仕草をするのは僕だけで、それは僕が馴染みでない客だからなのかもしれなかった。それからすぐに牛丼が運ばれてきて、僕は勢いをつけてそれを体内へ送り込んだ。残高はちょうどゼロになっていたが、僕はこの上なく満たされていた。


posted by 望光憂輔 at 00:10| 夢まち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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