2011年10月27日

異分子

 女の背中が正しく僕をその家まで導いてくれた。女は足を止めず、そのまま先に歩き続けた。女の目的地はここではなく、どこか別の場所にあるようだった。近づきすぎた足を、僕は少しだけ後戻りさせて、自販機の前に来た。家の中に入ってしまうともう、冷蔵庫は自分のものではないのだから、夜中に喉が渇いた時のことが急に心配になったのだ。自販機の冷たい明かりを見つめながら、それは他にも幾つかある内の、その中でもほんの軽度の心配事の一つかもしれないと考えた。笑い声が家の奥から漏れてきて、それは時折、連続して打ちあがる花火のように大きくなった。あの中に、僕が入っていくとどうなるだろう……。高い影が、僕をじっと見下ろしていた。それは自販機よりも遥かに高い、巨人だった。巨人は僕を見下している。この野郎、と見上げる。そして、やはり怖くなって逃げ出してしまった。
 部屋に戻ると中には三人の従業員が待ち受けていた。彼らが何かを言う前に、「強制チェックアウトすか?」と僕は訊いた。叔父さんが靴を脱いで、ベッドに上がろうとしたが従業員たちによってすぐに制止されてしまう。もうくつろぐことはできないのだ。荷物をまとめて帰り支度をした。次はどこに行くのだろう。「今日、面白いテレビある?」従業員に、訊いてみようとしたが、結局は声にならなかった。誰に訊いていいかわからなかったからだ。

 細い眉に平安を思わせる白い顔を兄はして、花を配る準備をしている。すべてが兄らしくない。死んだのは、本当は兄ではないのか。兄は兄ではないのではないのか。「誰かが間違えて入っていったようだ」見てくるようにと兄は言った。
 音もなく這い上がっていく影を追って階段を上がった。どこかで乱暴にドアが開く音がした。耳を澄ますとそれ以上の音はない。踊り場の隅に空き缶が一つ、中には花が一つ、夜に重なり色までがつかめない、僕はこの場所を覚えておくのだ。水の音が聞こえてきて、ドアを開けると台所の蛇口から水が落ちて洗面器があふれ、中では船が回っている。誰もいない。屋上の倉庫に入っていく影を見た気がして後を追うと、階段を激しい足音が幾つも駆け上がってくるのが聞こえ、僕は鉄柱に身を寄せて隠れて様子を見ていた。「異分子が紛れ込んでいる」タンクとホースを手にした青服の男たちが、倉庫の前に集まっていた。間違えて来てしまったのは、僕の方なのか。気づかれないように、ゆっくりと鉄柱を離れて飛行準備に入る。手すりを越えて、僕は飛んだ。時々追っ手が来ていないかを振り返って確かめた。青い物体が、地上をゆっくりと歩いてこちらに近づいてくる。飛行速度を上げて、引き離す。あれは、人間なのだろうか。ゆっくりと歩いているように見えるのにだんだんこちらに近づいている。だんだんと飛行体力がなくなって、僕は高度を下げる。決して走ってなどいないのに、青服は機械仕掛けの着実な足取りで距離を詰めている。その確実性が、僕の生存本能を吸い取っていくようだ。兄のところに戻るべきか、それとも最も人が集まる場所に身を置くのが正しいのか。その時、人は、僕のことを助けてくれるだろうか。地上はゆっくりと近づき、木がそよいでいる。
 明日家に行くと伝えると、姉は短いメールを返してきた。文末には笑顔があった。

posted by 望光憂輔 at 21:08| 夢まち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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