2011年11月02日

ヤナギ

「空想から眼を逸らすな。
現実の中に逃げ込まないで空想を信じて見つめ続けること」
 ヤナギは言った。

 非常ボタンにも見えたものは単なる赤い磁石で、強い力で制御版にひっついているので、誰が来るか押してみたくなった。押しても誰も来ないかもしれない。
「だから押しても無駄だよ」と僕が言う。
「だから押しても大丈夫だよ」すぐにヤナギが変換してしまう。

 オランダの船が近づいている中、日本代表は剣術のチェックをしている。
「やーっ!」
 宮本コーチが剣を振るっている。
「ここは今、どうなっているんです?」
「時間さえあればちゃんと説明できるんだが」
 船が近づいているので、時間がないとコーチは言った。

「名前を書いてお待ちください」
「どうにかしなくちゃどうにかなってしまう」
 マネージャーが言うので、僕も手伝うことになった。
「宇宙服を着てもいいでしょうか?」
 まあいいでしょうとマネージャーは言った。色んなことに構ってはいられない様子だ。

 海を見ながらジンジャーエールを飲んでいると獅子が近づいてきて、僕の横に寝そべった。そのまま大人しく寝そべっているが、大きな獅子が海辺にいるのは人目を引くようで、徐々に周りが騒がしくなっていき、ジンジャーエールを飲むどころではなくってきたが、無関係を装うためにもあえてジンジャーエールをゆっくりと口に含み味わうことにしたのだ。時々、獅子はジンジャーエールが羨ましいのか泡の弾ける音に耳を傾けながら、その澄んだ鋭い瞳をグラスに向けた。欲しいと声に出せば割れてしまうほど、獅子は髭を蓄えていた。やがて、僕は猛獣使いとして人々から恐れられていることを知った。
「猛獣使いがジンジャーエールを飲みながら、海を見ています」
 誰かが警備員に密告したのだ。
 ジンジャーエールを獅子に与えて、ここから逃げ去るべきかと考えた。獅子は、本当にジンジャーエールを受け取るだろうか。
「あげても無駄だよ」と僕は言う。
「あげても大丈夫だよ」すぐにヤナギが変換してしまう。
 帽子に付属した足が歩いてきた。
「ほんの使いだよ」
 それはストローの使いだった。
「逃げ道を教えに来ました」
 そう言ってストローの使いは、宇宙服の中に切符を差し入れた。

「車掌さんが回ってきたら、すぐに切符を見せたら負け。
そうすれば、何か後ろめたいことがあると思われてしまう」
 少し間を置いて見せるようにとキットは言った。
「おひとりさまと軽く見ていたら、エトーさまは2人、3人と平気で抜いていくものだからそれは大慌てだったよ。ひとりではないのかと言ってマネージャーが人数をもう一度確認するように誰かに言って、誰かは訊かれてもいないけどそれがエトーさまだと言ったら、マネージャーはどうしてそれを先に言わないのと真っ赤になって怒ってね。人がせっかく話しているんだからあくびでもしたらどうかね」
 そう言われてもあくびは出なかったが、口を開けて聞くようにした。
「だったらBOX席に案内しないかということになって、エトーさまを改めてBOX席に案内することになったのだよ。あそこの立場が空きました。さあ、立ってゆっくり話そう」
 それから延々とキットの話は続き、一度も車掌は回ってこなかった。

「高いところから失礼します」
 太陽が呼んでいる様子だったが、高いという感覚が湧かなかった。それよりもあの木の上にいる生き物の方が高いという感じがした。下りてきたら勝負してやるぞという眼で僕は生き物を睨みつけ、実際に下りてきたらいつでも逃げ出せるように踵を浮かせた。ゆっくりと日が落ちてきた。
「探しましたよ」
 マネージャーは手伝ってくれたお礼をすると言った。あまりに忙しかったので、何もわかってないようだった。
 BOX席に案内してくれ、売れ残ったイチゴケーキを運んできてくれたが、イチゴそのものは売れてしまったと言い、感謝と非難の同居した箱の中で僕はフォークを取った。
「怒っては駄目。怒りを空想に変換するのだ」
「空想なんて、すぐに消えてなくなってしまうじゃないか」
「本当のものはいずれ消えてゆくものだ」
 ヤナギは言った。
「どうして宇宙服を着ているの?」
 思い出したように、マネージャーが訊いた。
「今からでは思い出せませんよ」

 砂浜に置かれた丸い果物の周りで男たちは順番に剣を構え、近寄ったり離れたりしていた。ここぞという場所に立ち止まり剣を振り下ろすが、それは砂を切っただけだった。次の男が剣を高く構えて誰かのコーチングに沿って、目的物に近づこうとするが、砂に足を取られて転倒してしまった。みんなの笑い声が渦となって風に溶けた。けれども、宮本コーチの甲高い声が、風を引き裂き砂を戦艦のように重くした。
「真剣にやれ!」
 船がゆっくりと近づきつつあるようだったが、オレンジの光に包まれて見えなくなった。獅子は、眼を細めてその様子を見つめていた。


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posted by 望光憂輔 at 16:56| ピリオド | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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