2011年10月27日

異分子

 女の背中が正しく僕をその家まで導いてくれた。女は足を止めず、そのまま先に歩き続けた。女の目的地はここではなく、どこか別の場所にあるようだった。近づきすぎた足を、僕は少しだけ後戻りさせて、自販機の前に来た。家の中に入ってしまうともう、冷蔵庫は自分のものではないのだから、夜中に喉が渇いた時のことが急に心配になったのだ。自販機の冷たい明かりを見つめながら、それは他にも幾つかある内の、その中でもほんの軽度の心配事の一つかもしれないと考えた。笑い声が家の奥から漏れてきて、それは時折、連続して打ちあがる花火のように大きくなった。あの中に、僕が入っていくとどうなるだろう……。高い影が、僕をじっと見下ろしていた。それは自販機よりも遥かに高い、巨人だった。巨人は僕を見下している。この野郎、と見上げる。そして、やはり怖くなって逃げ出してしまった。
 部屋に戻ると中には三人の従業員が待ち受けていた。彼らが何かを言う前に、「強制チェックアウトすか?」と僕は訊いた。叔父さんが靴を脱いで、ベッドに上がろうとしたが従業員たちによってすぐに制止されてしまう。もうくつろぐことはできないのだ。荷物をまとめて帰り支度をした。次はどこに行くのだろう。「今日、面白いテレビある?」従業員に、訊いてみようとしたが、結局は声にならなかった。誰に訊いていいかわからなかったからだ。

 細い眉に平安を思わせる白い顔を兄はして、花を配る準備をしている。すべてが兄らしくない。死んだのは、本当は兄ではないのか。兄は兄ではないのではないのか。「誰かが間違えて入っていったようだ」見てくるようにと兄は言った。
 音もなく這い上がっていく影を追って階段を上がった。どこかで乱暴にドアが開く音がした。耳を澄ますとそれ以上の音はない。踊り場の隅に空き缶が一つ、中には花が一つ、夜に重なり色までがつかめない、僕はこの場所を覚えておくのだ。水の音が聞こえてきて、ドアを開けると台所の蛇口から水が落ちて洗面器があふれ、中では船が回っている。誰もいない。屋上の倉庫に入っていく影を見た気がして後を追うと、階段を激しい足音が幾つも駆け上がってくるのが聞こえ、僕は鉄柱に身を寄せて隠れて様子を見ていた。「異分子が紛れ込んでいる」タンクとホースを手にした青服の男たちが、倉庫の前に集まっていた。間違えて来てしまったのは、僕の方なのか。気づかれないように、ゆっくりと鉄柱を離れて飛行準備に入る。手すりを越えて、僕は飛んだ。時々追っ手が来ていないかを振り返って確かめた。青い物体が、地上をゆっくりと歩いてこちらに近づいてくる。飛行速度を上げて、引き離す。あれは、人間なのだろうか。ゆっくりと歩いているように見えるのにだんだんこちらに近づいている。だんだんと飛行体力がなくなって、僕は高度を下げる。決して走ってなどいないのに、青服は機械仕掛けの着実な足取りで距離を詰めている。その確実性が、僕の生存本能を吸い取っていくようだ。兄のところに戻るべきか、それとも最も人が集まる場所に身を置くのが正しいのか。その時、人は、僕のことを助けてくれるだろうか。地上はゆっくりと近づき、木がそよいでいる。
 明日家に行くと伝えると、姉は短いメールを返してきた。文末には笑顔があった。

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青空ATM

 虎が出たら飛べるだろうか。久しく忘れていた飛行の仕草について考えていた。あるいは、火の海に囲われたとするなら。忘れていたのは、きっとその必要がなかったからなのだ。夜の降りたばかりの街の中で、獣の匂いをつけた何かが、夜と同色の毛を逆立てながら迫っていた。振り返れば、僕の顔の中から一方的な恐れのサインを確認して、それは喉の奥から早くも勝ち誇ったような雷鳴を発するだろう。もう一度、僕は飛行の仕草を、過去の中では正確に組み立てられて風の向きや雲の流れを把握していた翼としての手触りを復習する。そう。それはそんなにも難しい仕草ではなかった。真似たり、学んだり、記憶したりする必要のない、自然に備わった、生まれ持った仕草なのだ。大丈夫、大丈夫。三度目の大丈夫と共に、振り返る。力ない足取りで、猫がこちらに近づいてくる。小太りの、黒い猫。猫が歩くと途端に夜は溶け始めて、街には人があふれ始めた。

 一番端の列に並んでようやく先頭までたどり着くことができた。財布の中を確かめてみると、やはりお札は尽きていた。カードを取り出したが、入れるべき口が見当たらなかった。前の人の仕草を注視しておかなかったことを深く後悔する。どこかにそれはあるはずだった。落ち着いて、視野を広く見回す。隣の人が当たり前のように扱っている操作盤の形がどこにも見当たらない。落ち着いて、落ち着いて……。自分に言い聞かせる。ようやく僕は壁の中に突き出した紙切れの存在に気づく。正解のチャイムが胸の中を流れ落ちる。動揺を顔に出さないようにして、ゆっくりと頼みの綱に向かって近づき手を伸ばす。きっとそれは前の人が取り忘れていった伝票に違いなかった。そこには僕が必要とするすべてが備わっているはず。確かに、それは明細伝票だった。けれども、それを手にした瞬間、それは偽物の希望であったことがわかり、僕はその場で膝を折った。何もない……。紙切れはただ岩にくっついているだけだったのだ。本当に紙切れらしく。振り返った時、僕の後ろで待っている人は一人もいなかった。あの列は、今まで並んでいた、あの列はいったい何だったのだろう。そんな疑問を持つ人はここには誰もいない。ATMを待つ人々は皆、大金を手にした時の使い道を考えながら青空を見上げていた。人々は車道にまであふれかえり、そのせいで車は開かずの踏み切りを前にしたように、ずっと停止したままだった。新しく、待つ人々の中に戻る気力は、とてもなかった。コンビニを探して、僕は青空ATMの前を離れる。

 突然に思い出された空腹と、暖簾の奥から漂ってくる肉の匂いが足取りを曲げてしまった。なけなしの金で、今を満たすことは案外素敵なことのように思われた。「いらっしゃいませ」赤いバンダナを巻いた女の威勢のいい声が出迎える。店内は、テーブルもカウンターもほとんど隙間なく埋め尽くされていたが、特にスーツを着た人の姿が目立った。最も近いテーブルの二人はグラスにビールを分け注ぎながら飲んでいた。券売機にコインを投入して、牛丼のボタンを押す。ノートパソコンを閉じて帰り支度をしている若者の姿が目に入った。壁沿いのカウンター席に行こうとするとそこにはまだ食の形跡が残っていたので、思い直して離れる。そうしている間に、別のカウンターの席がばたばたと空く。その一番端の席について、食券を置いた。一つ間を空けて新しくやってきた男が席につく。水を飲みながら待っていると、厨房の奥から、黒いバンダナを巻いた男が出てきて、目の前にお玉を差し出す。「汁はこれでどうでしょう?」僕はカウンターから口を突き出して、お玉から汁を啜り、黙って頷いた。そのような仕草をするのは僕だけで、それは僕が馴染みでない客だからなのかもしれなかった。それからすぐに牛丼が運ばれてきて、僕は勢いをつけてそれを体内へ送り込んだ。残高はちょうどゼロになっていたが、僕はこの上なく満たされていた。


posted by 望光憂輔 at 00:10| 夢まち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月26日

愛読

 教室の前では女子が着替えを始めようとするところだった。一人の女子と目が合ったような気がし、その子は少し笑ったような気がした。どういう意味の笑いなのだろうか。けれども、僕は目を伏せて、それ以上教室の中を見ることをやめた。積み上げられた本を運ばなければならない。それは全部が、自分の持ち込んだ本だった。持ち運べるだけの量を箱に詰め、あるいは、紐で縛り崩れないように表紙の中心で十字を作り、そこに指をかけて運べるようにした。一人で当たるのは大変だったが、本のことに集中している内に、だんだんと教室から零れる声は遠ざかり聞こえなくなっていった。自分は今、正しいことをしているのだ。そうした自覚が何よりも自分自身を勇気付けていた。「大変そうだね」どこから来たのかおばさんが、気がつくと僕の横にしゃがみ込んでいた。「助かります」運ぶのを手伝ってくれるという。最初は一人だったが、作業を重ねている内に、何事かと気づいたように、人が人を呼んで徐々に援助者は増えていった。たくさんの見知らぬおばさんたちが、運搬作業を手伝ってくれた。
「ありがとう」
 中継地点としていた踊り場の本の数に違和感を覚えた。何度も校内を行き来する内に、迷いが生じて誰かが場所を間違えているのかもしれなかった。踊り場を間違えて別の場所に運んでしまった可能性が考えられた。売店を挟んで右の踊り場が正しい中継地点だったが、誰かが間違えて別の踊り場へ回ってしまったのだろうか。人数が増えるにつれてルートが分散して、誰かが無理な近道を模索したり余計な回り道を考え始めた辺りから事はおかしくなり始めたのかもしれなかった。監督(最初のおばさん)に原因の究明と行方不明になった本の捜索の協力を依頼した。組織の心強さと力が分散することの不安を同時に覚えた。「大変そうね」今までになく若い人間の声に驚いた。どこかで見たような気がしたが、あの時教室にいた女子かどうかを訊くことはできなかった。「うん。でも、あと少し」手伝えることはないかと彼女は言った。少しだけ、好きな本の話をした。

 中継地点の踊り場を間違えていたのは、僕だった。僕以外の誰も間違えてはいなかった。みんなは常に正しかった。誤った踊り場から本を回収して正しい中継地点へと運び直した。
「これを2時間で読もうとしたんだよ」
 自省を込めて僕は言った。結局は1冊として読むことはできずに、ただそれを失わずに持ち帰るだけの作業に、大勢の人を巻き込みながら追われているだけだった。
「まあ、そういうこともあるよね。何でもできそうな気になる。後で考えたら自分でも馬鹿馬鹿しくなるようなことを考えたり、とても自分の手には負えないようなものを抱え込んでしまったり……」
 私にもある、と彼女は言ってこちらに駆けてくる男子の方を見た。
「これっ!」
 どこからか友達が本を見つけてきてくれた。金の紙紐できつく縛られた文庫本3巻セットだった。
「ありがとう!」
 どうしてこんなに、みんが自分のために動いてくれるのだろう。あの時、教室の前で一人本と向き合っていた時のことを思い出して、泣きそうになった。
 集合した本と、自分の記憶の中のリストと照らし合わせてみる。最も気になっていた2冊を、その中に見つけ、また少し安心する。

posted by 望光憂輔 at 23:21| 夢まち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2人の声

 夜の中を走っていく2人に、触れなければ、話を聞くことはできない。何周も繰り返し2人は疲れも見せずに街を回り、その途中で僕の家にも立ち寄って好きなものを盗んでいくのだ。「待て! 待ちなさい!」2人の兄妹は、決して振り返らない。決して耳を貸さない。自分たちだけの遊びの世界に閉じこもっているからだ。彼らの世界に入り込むためには、触れなければならない。彼らはあらゆる鍵を持っていて、好きなところに、入りたい場所に、自由に入り込むことができる才能を持っていた。まだ、一度も触れられなかった。

 店の中は暖かくて、先生と2人並んでカウンターに腰掛けた。「もうすぐあの人も来ます」と女は、グラスを磨きながら微笑んだ。準備ができたので、奥へどうぞと言い、僕らは動き出す。2人にしては広すぎる部屋を用意してくれていたが、あまりに広すぎて落ち着かないため、襖を閉めて少し個人的なスペースにしようと思った。ゆったりしているのはいいけれど、これでは声が部屋の外にまで漏れてしまう。別に他人に何を聞かれようが構わないのだったが。「一番得意のを歌おう」と先生は言った。先生も同じようなことを気にしていたのだった。襖を閉めたせいで、今度は暑くなってきた。僕は電話を取った。「はい、母です」と女は言った。「少し暖房を下げてもらえますか?」せっかく朝から、暖めてくれていたのに申し訳ない気持ちだった。女は、感情を持たない声でわかりましたと言った。他に何も言わなかった。

 ようやく触れた、と思ったのは兄の吹いた口笛だった。メロディーの切れ端に少し触れたにすぎなかった。いつになっても鬼ごっこは上達しない。触れなかったので2人は、もう追いつけないところへ消えてしまった。先生の歌が思い出せないのだった。僕は何も歌わなかった。そこには誰もいないのだということがわかり、安心しきって何も歌えなくなったのだ。一人汗をかきながら、先生は歌った。階段の下で、じっと身を潜めて僕は2人を待っていた。どこからも影は見えなかったのに、突然、カラカラと階段が鳴り始めた。闇の中で音を追いかけ、階段を上がった。その時、ようやくのことに僕は触れたのだ。音は影となり、少しして肩に変わった。間もなく僕の家の中に2人は入り込もうとするところだった。「今日は何度入ったの?」兄は見つけられたことがうれしそうに、「何度も入った」と言った。妹は、犬を摩るように僕の肩に触れ、「最初だよ」と言った。

posted by 望光憂輔 at 02:25| 夢まち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月21日

歌い解く

「歌うことをやめなければうそつきになってしまう」

 話し込んでいる内にいつしか自分の席だと思い込んでしまう。先生がやってきて、君と言い、僕は間違いに気づかされる。引き出しの中はそのままにして、僕は本来自分のいるべき場所へ向かうのだけれど、引き離されてゆく気がする。自分のいた場所が本当に自分の居場所だったらという思いが支配する中で、もうテストは始まっている。1問50秒で解かなければ全問は無理ですというアナウンスが天井から流れる。

 長椅子の向こう側、面接官は鍋の美点について語り出すけれど、聞いている内に笑顔がこみ上げてくるのだった。「実はもう持っているんです。1つ」得意気に言って、席を立つが、展示場にはたくさんの鍋が並べられているせいで、自分の持参した鍋がどれなのかわからなくなってしまった。何周もしてようやく見覚えのあるほくろの1つを見つける。大勢の鍋の中に紛れてしまうと思ったほど大きくはなかったと気づかされる。歌うことをやめなければ、もう僕はうそつきになってしまうのだ。「ねえ、これなんだよ」蓋を開けて、テーブルの上で回して見せた。「何をするんだ?」友達は冷静に関心を示した。「ほら、軽い!」

 今、20問目に到達していないと全問は無理ですというアナウンスが天井から流れる。僕はまだ1問目に苦戦している最中だった。難しい。

「歌うことをやめなければうそつきになってしまう」

 やけになって僕は鍋蓋を回している。この軽さをわかってほしいと思っている間にも、みんなは鉛筆を走らせて時が駆けてゆく。歌ができる予感が満ちてくると、また1つの思考が停止されてしまう。落葉の1つを僕は千切って、鍋の中に落とす。「何?」そうだ、正にそのために、意味などないのだという証しのために、僕は落葉を。
 雨が、鍋の中を打ち出して、それと共に最後の時が迫っていた。僕はもう歌うことをやめなければならないけれど、解くことはあきらめてただ問題文を眺めていることに決めてしまったのだ。今ではもう、問題文もすべて英語で書かれている。

posted by 望光憂輔 at 19:32| 夢まち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

シャンプー

 中の様子を見てから再び番台に戻ると今度は人がいた。「上がったらぱーっと○○してね」と言うので僕は聞き返した。「上がったらぱーっと○○してね」と言って、やはり最後のところがわからなかったが、わかったと言ってしまった。しばらくしても、答えは出なかった。石鹸シャンプーセットは500円とあったが、鞄の中には旅行用シャンプー3点セットがあったので僕は安心して奥へと進んだ。コイン投入口のところに240円と書いてあるが、使用後にお金は戻ってこないのだろうか? もしそうなら240円という設定はおかしな気がした。「貯金ができます」という貼り紙に気がついた。毎日コツコツと貯めていくことができます、と。ロッカーに荷物を入れながら貯金をするとはいったいどういうことだろうか。それにしてもロッカーはいっぱいで一つも空いてないのだった。襖を開けて、次の脱衣場に行くとそこは大広間で複数の人が柔軟体操をしている最中だった。脱衣場は階層状になって幾部屋にも渡ってつながっている。襖を開けて、次の脱衣場に行くと薄暗い部屋の片隅で男が一人着替えをしている最中だった。ロッカーに近づいて見てみると今度はコイン式ではなく、ただ南京錠で留める方式だった。そしてそれはダイヤル式の南京錠なのだった。4桁の暗証番号はどこで決まるのかがわからなかった。よく見ると南京錠は錆びつきが激しく、埃を被っている。それはどの南京錠もそうなのだった。ついに僕はロッカーを使うことはあきらめて、大部屋に戻り適当に服を籠の中に脱いだ。底の方に財布を置き上からなるべく乱雑な雰囲気でシャツを置いた。シロが穴に埋めた骨の上に、土をかけて隠している時のようだった。その時、僕はシロの様子を少し離れたところからじっと見つめていたのだった。
 髪をシャンプーすると僕はすぐにジャージを履いていた。タイルの上でばったりと先生に会った。「久しぶりだったんで慣れてなくて」ジャージを履いていることを弁解しようとして、おかしなことを言ってしまった。たいやきを食べながら、先生は笑った。僕もたいやきが食べたくなって、ポケットの中に手を入れてみたが、一枚の硬貨もなかったのであきらめた。よく光る魚が走る水槽の上にシャンプーセットを置いて、壁に描かれた恐竜の頭を見上げていると、湯船から水の弾ける音が聞こえてきた。

posted by 望光憂輔 at 01:28| 夢まち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月20日

耳飾り

 たくさんのお菓子を抱えているはずだった。恐ろしい時間が過ぎて、誰かが大声で僕を起こした時、すべての賞味期限は切れてしまっていた。僕が舞台に上がるという約束だったのに、僕が眠ってしまったのをいいことに上がらないと言っていた猿が上がってしまった。あれほど上がらないと言っていたのに、これで良くない前例ができてしまい、これからは彼も積極的に上がることを主張することになってしまうのかもしれなかった。親戚を始めとして多くの訪問者が、家の中に上がり込み、空気を汚していた。僕は逃げ出すようにトイレに駆け込んだ。
 ドアを開けると、兄と海叔父さんがトイレの中に身を寄せて潜んでいた。彼らにしても、居場所を確保できていないようで、いったい誰のための式典なのだろう。ここは僕らの家ではなかっただろうか。僕の格好がいけないというのか、歩くたびにみんなは白い目で僕を見ている。飾り付けの青紙を丸めて、僕はそれを耳飾りにでもしてみることにした。誰か一人でも微笑んでくれればそれでよかった。奇抜なファッションで、この淀み切った空気を晴らそう。僕は一筋の希望を抱いて、耳に青を当てた。けれども、誰も笑わなかった。何も変わらない。

posted by 望光憂輔 at 00:50| 夢まち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月18日

崩壊

 面白い話でも書いてよと真っ白い葉書を手渡す、レンズの奥の眼は笑っているようにも見えた。一年間あげると言われてもわからないのに、今すぐ書けと言われて書けるはずはないのだった。けれども、不意に与えられた切迫した情況だからこそ、何かが目覚めて今までなかったものが偶然生まれるということはないだろうか、と同時に思う。不条理な状況がわくわくするチャンスのように思え、突然、心臓が弾むように鳴った。葉書を手に取って、机の真ん中に置いた。その白さを見つめている内に、胸の中で弾むものは落ち着きを取り戻し、冷静さが返ってくるとやはり何もかも無理だと思え、何も変わることはないのだと悟った。紙飛行機を折って飛ばしてしまいたい誘惑と戦いながら、時は過ぎて行った。窓を開けると工事の音がし、さわやかな風の後に煙たい灰色の空気、冬の結晶のような塵が入り込んできた。面白い話を書くためには、準備が足りなかったのだ。「貸してみろ」いつの間にいたのか、いろはカルタを取るようにチーフが机の上の葉書に手を出した。
 チーフは、葉書いっぱいに木のイラストを描いた。これを塗ったら休憩だと言った。ありがたかった。今の僕にはお似合いの仕事だった。鉛筆を手にとって、自然に輪郭づけされた木の中を灰色に塗っていった。「直にここはなくなるぞ」とチーフが言った。

 ショベルカーがビルを押し潰す度に土煙が上がった。チーフの描いた木もなぎ倒されてしまった。リサイクルカーが、冷蔵庫やテレビや洗濯機を運んでいる。「あれは無料で引き取ってくれるの?」見物人の一人が訊く。「無料ですよ。リサイクルは無料。そのためにみんなで税金を納めているんです」通りすがりの婦人が答えた。見物人の中に交じって、建築物が破壊されていく様を、僕も見ていた。リサイクルカーが近づいてきて、少し危険を感じて一歩二歩後退した。土埃のせいで喉が痛い。彼は、リサイクルカーが近づいてきても、決して動こうとしなかった。彼と話をしている彼女も一緒だ。何かを話しているが、騒音にかき消されて聞こえない。動き続ける唇、時折緩む、彼女の唇。きっと恋の話をしている。ついに、リサイクルカーの中から男が出てきて、二人に下がるように手を振って命じた。彼は、一歩下がり、彼女も影のように動いた。土そのもので、僕の口の中はいっぱいになっていた。コンビニに入ったが、中は真っ暗で、もはやほとんどの商品は消え去っていた。棚の下の方に、僅かに文房具の類が忘れられたように残っていた。「喉にビスケットが詰まったから先に帰るよ」喉を言い訳にして、僕は二人から離れた。エスカレーターですれ違った男が、僕を見てニヤリと笑った気がした。

 地下街を歩いていると、すれ違った男が戻ってきて、僕に殴りかかる振りをした。そして、笑った。「驚いただろう?」と言う。無視して歩いていると、男はなおもつきまとってきて、しきりに威嚇の動作を繰り返すのだった。「やるぞ、やるぞ」と男は言い、笑った。まるで知らない男だった。わけがわからず、実際に何も被害がないだけに、どうしていいかもわからなかった。男は、いつまでもついてくる。もういっそ、殴られてしまいたかった。威嚇の度に繰り出される手から、遠ざかり逃げることなく、むしろ近づきさえしてみた。けれども、男は器用に距離を取りながら憎たらしい笑みを絶やすことはなかった。歩く速度を上げると男もそれに応じた。ついに、こちらから切れてしまう。「やれるもんなら、やってみろ!」その瞬間、声は、自分の耳にだけ届いた。声が時間を崩壊させたのだ。白い葉書の真ん中に、僕は立っていた。

posted by 望光憂輔 at 23:03| 夢まち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

タイムライン

 前の座席にはあの彼女が座っている。僕のことに気がついているのだろうか。僕は眠ったふりをしなければならないが、本当はそうしたくはなかった。外国人が食べ物を運び回っているからいけないのだ。こんな時間に眠っているとしたら、彼女は僕の生活リズムを疑うことだろう。いったいどういう暮らしをすれば、そんなに疲れ果てたように眠ることができるのかと疑うはずだ。「おいしいお米パンができましたよ。一ついかがですか?」ありがとうございます、とお婆さんの声がする。駄目だよ。お婆さん、それを食べたら駄目なんだ。僕の叫びは、お婆さんの耳には届かない。魚が逃げてしまった。

 まな板の上には、脱ぎっ放しの制服が置いてある。調理の邪魔になるということがわからないのだろうか。そもそも服は、ハンガーなどに掛けるもので、まな板に置くものではないはずだ。主張はたくさんあるはずなのに、僕の言葉は控え目だ。「制服、あなたのでしょう」問うような、教えるような、曖昧なことしか言えないのだ。お椀に蓋がついたようだった。料理長が新しくつけたのだ。「高級感が出ましたね」と僕は言って、お椀の蓋を開けてみると、白いご飯の上に緑の葉っぱが一枚だけ載っていた。「狸丼だよ」魚が逃げてしまったので、メニューが変更になったのだという。僕は寂しい気持ちに蓋をして、更に深くタイムラインを遡って行った。

 シュートだ、と適当な叫び声が聞こえる。キックインからシュートなんてない話だったし、その上僕はもうラインの外に倒れ込んでしまっていた。蹴ることなんてできない。辛うじて触れることができたとしても、ボールは前には転がらない。気持ちは足で、実際には手を使って、なんとか放り込んだボールは、順調にタイムラインの上を滑っているようだ。何てことのない風景が、何てことのない感想が、そこにはあって、にもかかわらずだんだんと引き込まれてゆく自分があった。次へ次へと時間を遡る。囁かれた言葉と同じ場所に立ち、接続された言葉の間を縫って歩いた。好き。僕はこの人のことを好きになった。好きになって進んでゆくとそれはますます好きになってしまった。一度通った言葉の上も、好きになった自分の目で見るとそれはまた別の意味合いを持って輝き始めた。僕は、この人とともだちになるんだ。突然、現れたともだちの影に、僕は泣いてしまう。終着駅。

 あの彼女はもういない。パン売りの外国人も、みんないなくなっていた。数少なくなった乗客の中の二人が僕の前を歩いて行った。階段を上がり、階段を下り、次のプラットホームにたどり着いた。「どこへ行こうか?」女の一人が言い、もう一人は何も言わず手の中にある地図にじっと視線を落としている。僕は二人の前を通り過ぎて、再び階段を上り、下り、正しい出口を探した。改札はまだ見えず、代わりに海鮮を歌う旗が見えた。誘われるように近づくと、カウンターの上を生きた魚が回っていた。


posted by 望光憂輔 at 02:04| 夢まち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月14日

空白のドラゴン

 もう学校に行く必要もなく僕は一人で歩き出すと道はすぐに暗くなってしまった。地理が苦手だったのだ。
「カナダはどこですか?」
「ユーラシア大陸」
 夜を越すことが最初の課題。僕は明かりに吸い寄せられてスーパーの中を彷徨っていた。どこかに身を潜められる場所はないだろうか。朝までここで過ごすことができればあたたかくて安全だと思った。「****さん」どこからか従業員が飛び出してきて、名前を呼んだ。自分のことであるはずはない。たまたま同じ名前の人がいるだけなのだ。また、別の人が現れて「****さん」と呼ぶ。****さんをみんなで探している。自分のことではないのに、顔にわかりやすい不安が表れているのがわかる。
「****さんは、あの子といると感じが違うけどもしかして好きなの?」
「意外と好きです。少し前から、だんだんと好きです。今は相当に好きです」
「そうなの、そうなの、まあ! 本当に!」
「いいえ、そうじゃなくて、それくらいの気持ちで演じているということですよ」

 一人降りまた一人降り、降りる度にまた新しい人が乗ってきて、入れ替わりながらバスは進んでいく。今では僕ももう古い乗客になっていた。新しくやってきたおばあさんが僕の隣に座ると鞄から本を取り出した。目が悪いので読んでくれと言う。僕は漢字が苦手だった。

『ドラゴンの夜』いつも冷静な兄が時々奇声を上げながら、「わー、無理だ」。パニックになり、力尽きる。けれども、気を取り直して再スタート。永遠に繰り返される世界。きりがないからこそいいのだ。夜は更けていくけど眠るなんてもったいない。時間に縛られた世界の中で、時間を忘れられることは素晴らしい。僕はその時思った。こちらの世界の方が本物なのじゃないかと。きりのないこちらの世界が本物。終わりのある現実の世界は幻……。
「あー、また死んじゃった」くやしがりながら、兄はスタートボタンを押す。時計の針が、幻の世界の中で恐ろしい速度で進んでいた。
「○○○やめたの?」
「きりが○○からね」
「やっと○○○○○」
 ○○の先輩のように○は言った。
 ○○○○○を出たところでドラゴンを見かけた。懐かしさに○○○○ように、後をつけた。歩道をゆっくりと歩いていくドラゴンの背に夕日が反射して輝いている。見つからないよう、見失わないように後を追う。犬は、空に向かってほえ立て飼い主たちを困惑させ、○○○○としていた猫たちは、そそくさと姿を消し去った。秘密の路地を抜けると、突然ダンジョンへの入り口が見え、高まる胸に僕は○を当てていた。けれども、その時ドラゴンが振り返った。
「ここはもう、おまえの来るところ○○○○」ドラゴンは、きっぱりと言い放った。初めて聴いたドラゴンの声は、桜の下で奏でる○○○○のように胸に突き刺さった。僕は何も言わず引き返した。知らない町の中を、○○も持たずに彷徨った。夜がやってきた。
「空白を埋めなさい」
 おばあさんが言った。けれども、僕は空白を埋めることなく、そのままその先を先へ先へと読み進めた。読めない漢字があっても無理に読んで進めて来たし、意味が失われたとしても流れを止めたくなかったからだ。正確さや正解をおばあさんは求めているかもしれないけれど、今はこの流れに沿ってただただ先へと進んでいきたかったのだ。おばあさん、今、本は僕の手の中です。
「空白を埋めなさい」
 僕はボタンを押した。
「次で降ります」

 鳥たちが朝の準備を始めていた。僕は服を脱いで、田んぼの中に入った。そうして浸かっていると案山子たちがやってきて話し相手になってくれるかもしれないと思ったからだ。僕は面白い話を考えていた。今日のこと、クリスマスのこと、海のこと、芝居のこと、ジダンのこと、歌のこと、猫のこと、本のこと……。けれども、将来の話を考えていると不安になってきた。昔のことから話そう。案山子の一人がやってきた時を思って、昔を振り返った。五歳の頃のヒーロー、宝物、引っ越して離れていった最初のともだち……。案山子の頭の上に鳥が止まった。翼を広げると、背後に朝焼けが広がってゆく。
 


posted by 望光憂輔 at 02:33| 夢まち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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